太師邸にて





 夏の日差しは雲海の上でも強い。 太陽は天頂に近くぎらぎらとい言葉が似合うほど光っている。 空はそんな中こんもりと茂る比較的低い丈の庭樹の下で草を抜いていた。 こちらからは太師邸の奥の部屋が良く見える。 しかし、向こうからは強い日差しと濃い影がコントラストを作り、 こちらに何があるかは解らなくなっているはずだ。 空は、さらに呼吸を静かにして、周りの「気」に合わせるように整えた。

 三人の男が桂桂と呼ばれた男の子に案内されて入ってきた。 そのうち二人は、柴望と同じ稲の束を持っている。空は、不思議に感じた。 空が思いつく限りで最上だと思われる提案をした相手の柴望は、稲の花をつけた束を持っていても不思議はない。 しかし、普通は実った稲を献上するだろう。ところが、ここに来ている男たちは皆、 柴望と同じように稲の花を献上しようとしている。 残り二人の男も、空と同じような考えで稲の花を献上しに来たのだろうか?  彼女は、一体どういうことなのか理解しようと皆の話を注意深く聴いていた。

――どうやら、稲の束を持っていなかった長身の男が浩瀚か。 話のようすから、あの金色の長い髪をした男が「麒麟」なのだろう。――

この麒麟と思われる若い男も空から見れば不思議な気配を持った男だった。 軽く、透明な、人間と言うよりは機械の様な感じがした。

――桓たいと呼ばれている男はどうやら軍人らしい。ああ、そうか。あの男が柴望に丈身を世話したのか。――

 空は、そんなことを思いながら屋敷の外にも注意を飛ばしていた。 今のところこちらに近づいてくるような気配は無い。時折蝉が鳴いている。 じりっとした日の光が、客の額に汗を浮き上がらせる。

――それにしても、あの国主である少女は興味深い。 あそこに集まっている男たちは皆それ相応の人物なのに、 彼女を認め盛りたてて行こうとしているようだ。 あの浩瀚と言う男も彼女の話を真摯に受け止め感動している。――

普通に考えれば不自然な光景だ。 大の男が、このような少女に、 しかも日本で普通に暮らしていたとすれば、国王になること等考えたこともない、 そんな娘に忠誠を誓うのだから。 しかし、それを空は同時に自分の中で打ち消していた。 あの気配、あの少女が身にまとう気は、尋常ではない。それをおそらく皆感じることができるのだろう。
 この、アルコールに酔うような不思議なめまいを自分に起こさせる少女。 空は改めて自分がこの世界に来たわけを考えた。

――そういえば、呀峰は国王に謁見したはずだが、この気を感じられなかったのだろうか?――

 空は、呀峰は最後の詰めが甘かったのだ、と思った。 いや、最初からこの国主をもう少し違う目で見ていたら、判断を誤ることは無かったのかもしれない。 どちらにしろ、中央に出るには、何かが足りなかったのだろう。
 そんなことを思っているうち、話は終わり先ほどこちらに来た祥瓊、 鈴と呼ばれる少女と桂桂が昼餉を運んできた。 中華まんじゅうの様なもの、餃子やら春巻きやらいわゆる点心と言う物が卓の上に並ぶ。 談笑しながらの楽しげな昼食会が始まった。
 空は、皆のたわいない会話を耳に入れながら、周りをうかがう。 こちらの方角に近づいてくる気配を感じていたからだ。 同時に、景王の近くにあったあの姿の見えない不思議な生き物の気配が、庭をすり抜けて行くような気がした。 しばらくすると、また戻ってくる。どうやらあの生き物も、景王を始めここにいる人々の護衛をしているようだ。 こちらへ近づく気配は不穏なものではないことを空も気がつくことができた。 その気配は次第に遠ざかって行く。どうやら、ここが目的地ではなかったらしい。 おそらくあの生き物も、敵ではないことを確認してきたのだろう。穏やかに元の位置に戻ってきた。

   昼餉が終わると、景王と麒麟、虎嘯と呼ばれた青年、 それに少女たちと桂桂と呼ばれた少年は、それぞれの仕事場へと戻って行った。 柴望は、浩瀚と桓たいに別れを告げている。

「浩瀚様、いや冢宰、どうぞこの慶をお願いいたします」
「おいおい、柴望。いや、和州侯か?」
くっくっく、と浩瀚は含み笑いをする。
「和州侯、それは言う相手がいささか異なるようだ」
「おお、そうでしたな。それでは、主上の良き相談相手ですかな」
「ふふ、それは台輔だろう。私は主上のお考えを実行に移す、ただの官吏さ」
「また、そんなことをおっしゃる」
二人は、笑い合う。
「また、お互いに会うことができると良いのじゃが」
遠甫は、くしゃりと微笑んだ。
「正月にでも会えるんじゃないんですかね? 新年の祝賀と言うやつで、州侯も確か呼ばれるんでしょ?」
桓たいがのんびりとした口調で話に割り込んできた。
「うむ、まあそううまくいけばよいのだがな」
「柴望様、まだ何かあるんですか?」
「いや、それほど心配なことは無いのだ。悪かったな桓たい、余計な事を言った」
「いいえ」
「では太師、我々はこれで執務に戻ります」
「ああ、そうじゃな。おお、そうだ。 冢宰、今夜時間を作ってこの太師邸まで来ていただけますかな。少し話したいことがあるでのう」
「解りました」
「できれば、皆が寝静まった後に来てもらえるとありがたいのじゃが」
「左様でございますか?」
浩瀚は、何か内密な話があるのだろうと思った。
「かしこまりました。では冢宰府の仕事が一段落いたしましたら、お訪ねしましょう」
「ああ、申し訳ないのう」
真夏の太陽が、少し傾き、二人の影は書斎に少し長くなる。
「浩瀚様、お話はお済ですか?」
「ああ、今終わった」
「太師、今日は御馳走様でした」
「なんの、また機会があったらこちらへも寄ってくれるかな? 左将軍殿」
「もちろんです。ところで、新しい下男を雇ったんですか?」

庭草を抜きながらこの話を聞いていた空は、いささか驚いた。 「新しい下男」とは自分のことだと理解したからだ。
 空の気配を読むことができる者は、蓬莱でも何人もいなかった。 世に暗躍する渡辺家の暗殺者たちでも、彼女の気配を読むことのできる者は父親と一番上の兄ぐらいであった。 自分の身内以外で気取られたことは、人間相手には覚えがない。
 しかし、その驚きを表に出すほど、空の腕は鈍ってはいない。 桓たいが気付いた空は、あくまでも「下男」の空であった。

「おや、左将軍は気づいたか?」
遠甫はにこりと笑い、肯定の意を表すように、首を縦に振る。
「本当ですか、老師(せんせい)?」
浩瀚は少し驚く。

 このころはまだ、金波宮では人手が足りなかった。 しかし、どんな人間でも雇うほど悠長ではなかった。 浩瀚はすべてとは言わないがほとんどの下官を自分で吟味していた。 下男下女も、浩瀚の手の届くところで身元の確認をした者だけが働けるのだ。 太師邸にいるとすれば遠甫の推薦だろうから、信用に足るものではあるのだろうが、浩瀚は幾分心配になった。

「ふむ、本当じゃよ。そのことについても今夜話そうかの」
「解りました。それではお暇いたします」

そう言って、二人はそれぞれの執務に戻って行った。

一人残った遠甫は、
「空よ、出ておいで」
そう声をかけた。
「はい、おそばに」
いつの間にか、座敷のすぐ下に、空は跪礼していた。 遠甫はどうやって屋敷のすぐそばに戻ってきたのか解らなかった。 目に移った記憶を手繰り寄せるように、片手をあごにあて、少しなでてみた。 やがて微笑むと、
「空、お前は人より早く動くことができるようじゃな」
そう言った。
「そのようでございます」
空は答えてる。
「今、この屋敷のまわりに人がいるか解るかね?」
「はい、おおよそは気配で解ります。今は近くに人はいないようです。 先ほどこちらを退出された左将軍と冢宰が一番近くを移動しておりますが」
「ふむ、良く解るの」
遠甫は感心していた。
「そなた、ここに来る者から姿を隠しつつ、ここで生活することは可能かな?」
「そうですね。難しいですが、できなくは無いと思います」
「難しいと言うのはなぜかね?」
「私は自分がいる気配を覚られないように十分に気を使ったつもりでしたが、気付かれてしまいましたので」
「桓たいにかね?」
「はい、左将軍ともう一人、と申しましょうか? むしろ一匹かと」
「おお、陽子に憑いている使令じゃな」
空の聞いたことのない言葉だった。

――あの姿の見えない生き物は『使令』と言うのだろうか?――

遠甫は無表情な空の顔に、珍しく疑問符が浮かぶのを見て少し安心した。 まるで生きている気がしない娘だと思っていたからだ。
「空も、人らしい顔をすることもあるんじゃな」
そう言って、笑った。
「恐れ入ります」
空は、頭を下げた。

 こうして空は、遠甫のもとで姿を隠して生活することになった。 蓬莱での生活と同じような生活に戻ったと言ってもよいだろう。