空、庭から見守る





 空はあらかじめ柴望や遠甫と共に過ごしている奥の部屋から、抜け出す準備を整えていた。 空の耳には、こちらの方向へ近づく足音が聞こえていたからだ。 もちろん空にとっては「音」だけでなく振動や、 そこに住む小動物たちの動きなども分析情報に含まれていたが。
 空が集めた情報によれば、その人物は小柄で、特に怪しい様子はなく、 気持ちを推察するならば嬉しそうな足取りで、 段々とこちらに近づいてくる様子を示していた。
 遠甫に問われるままに柴望が襲われた話をしながら、一方ではそのまだ見ぬ人物にも気を配っていた。 それがこの屋敷の外部では一番近くにいる人間のようだ。
 空は、それまでのいきさつから、あまり色々な人間に自分をさらすのは良くないだろうと感じていた。 この動きから察するに、子供のようだ。 であれば、自分の存在をどのように紹介するのか面倒なことになるに違いない。 軽く、襦裙の紐を緩める。その内側には下男のまとう袍衫を着ていた。 どこの城でも下男の着物はあまり変わらない。もちろん、金波宮に特有の印でも付いていれば別だが。
 空は、この襦裙さえ脱いでしまえば、どこにでもまぎれこむ自信があった。

 遠甫に隠れているように言われる前から、空は座っている椅子より重心をだいぶずらしていた。 もちろん、柴望も遠甫も気づいてはいなかった。 それで、姿を隠すように言われると同時に、襦裙を浮かせ思い切り自分の身体を下へ沈めたのだ。 すでに椅子のすぐ横にずれていた身体を襦裙から抜いて、あらかじめ目測していた、 外へ開放されている後方へ跳んでいた。
 そういう動きをすると最初から解っていれば、空の動きを目で追うことは可能だったかもしれない。 しかし、柴望と遠甫はそんなことは露ほども思っていなかったので、 ただ、煙のように消えてしまったように見えたのだろう。 襦裙が中身を無くしたので重力にまかせてしわしわと縮んで下に沈んでいくその間に、 空は庭にある木の上に跳躍していた。 和州の後宮で着るように指示されたズボンの様なものもするりと脱いで袍衫の下に巻き込んでしまう。
 そこで、足音の主が入ってきたさっきの部屋のようすをうかがった。

――あの子は仙では無いんだ――

言っていることは何となくわかる。難しいことを話しているわけではないからだ。 しかし、残りの二人がまるっきり日本語でしゃべっているように聞こえるので、 回転の速い空の頭の中でも、翻訳するのは容易ではなかった。 前後の二人の日本語から何をしゃべっているのか推察した方が早かった。

 音もなく木から飛び降りた空(そら)は、あえて木がそれほど茂っていない、 つまり完全に姿を隠せるわけではないところへ移動する。その下にかがんで、雑草を抜き始めた。

 雲海の上というものは、そもそも高級官吏が住んでいる所なので、 比較的手入れがしてあり、雑草は少ないものだ。 しかし、現在の慶国では、ひとつ残らず抜き去るほどの人手をたかが庭の整備に裂くわけにはいかなかった。 陽子の住んでいる内殿の表の方、すなわち執務室や本人の休む寝所の周りなどはよく手入れされていたが、 それ以外のところはほっておくしかなかった。 太師邸はというと、桂桂を中心に鈴、祥瓊などが時々手伝って下草を抜いているので、 人が歩く範囲のところはきれいになっている方であった。
 そんなわけで、抜くべき下草は、十分にあったのだ。 よくよく考えれば、そんな人間がいるはずはないのだが、雲海の上に勤めていた者は、 一般的には誰でも、下男の格好をした人間が草を抜いているからと言って注意を向けることはないのだ。 自分を目立たなくする方法については空は勘が鋭く、 ほぼ間違いなく希望どおりに誰からも関心を持たれなくなることができたのだ。

 空は、さらにその男の子の後から、非常に不思議な気配と共に、 こちらに向かってくる人間がいることを感じていた。 それは、今まで空が、もちろん蓬莱の記憶も含めて、感じたことのないものだった。 衝撃と言ってもよいくらいだ。空の知っている言葉の中で無理やり表現するとしたら、 「癒し」だろうか? すべての生き物がその者の方向へ好んで向かう、そんな気配だった。  空は、感情が無いと自分では思っている。だから感情を表すことができない。 それで、空を取り巻く彼女以外の人間から見れば、冷静沈着と思われている。 実際、何があっても心が動く気がしないのだから、空にとってはそれは真実に違いない。
 しかし、この未知の人物の気配を感じてからは、心がざわついた。 「落ち着かない」と呼ばれる心の動きだと、空は自己分析した。 空の周りにいた小動物、虫の類が多いが、一斉に飛び去る気配をとらえた。

――いけない、覚られる――

空は、深呼吸よりももっとゆっくり呼吸をして、周りに自分の気配を合わせて行く。 どうやら元に戻すことができた。羽虫が戻り、蝉がもう一度鳴き出した。
 そのまだ見ぬ人物の気配を、今一度探る。その人は、しっかりした足取りだった。 どうも女性のようである。まだ若い。それに、さっきの強烈な気配とはまた異なる気配が、 この人物の周りから感じ取ることができる。こちらの方の感覚はどこかで覚えがあった。 いったい、いつ、どこで……。
 記憶を手繰る空は、唐突に思い出した。白陀の持つ気配に似ているのだ。 何か、白陀に比べると洗練されたと言うか、解りやすいというか、微妙に異なる気配ではあった。 それにしても、空は、敵ではなさそうだがひどく能力の高い生き物の気配を、 そのたぐいまれなる気配を持つ若い女性と共に同時に感じ取っていたのだ。

「太師! いらっしゃいますか?」
はっきりした日本語が聞こえた。仙の話言葉とは多少異なるものを感じたのだ。空のよく知っている言葉だった。
「ヨウコ! ×□★★%」(ようこ! いらっしゃい)
さっきのかわいい声がする。どうやら、あの少年が下男がわりをしているらしいと空は思った。

――ヨウコと呼ばれているのか、ひょっとすると??――

空は記憶を手繰りながら、さらに様子をうかがった。 かの少年は、いらっしゃいませと言っているようだ。遠甫と柴望も入り口に出てくる気配がする。
「αβ##♭!」(お茶を入れてきます!) そう言って少年は大人と入れ替わり、中へ入ってきた。向かう先は厨房のようだ。その後から柴望が口を開いた。

「主上! ただいま、こちらに参りました。柴望でございます」

――やはりそうか――

そう挨拶をする柴望の話を聞いて、空はこの陽子と呼ばれている若い女性が、 慶国の国主なのだと理解した。少し上を向き、彼女の顔を確認する。 こげ茶とまではいかないが、濃い肌色をしている、時折こちらの方を向くその瞳は、明るい緑色に見えた。 そしてその特徴的な赤い髪。本当に日本に住んでいたのか、と空は思った。 それにしても、強烈な気配を持った人物だ。 これがカリスマ性というものだろうか。 空は、蓬莱にいた時もこんな気配を身にまとわせている人物に会ったことはなかった。
 これに近い人物を空が選ぶとすれば、自分の母親がそうだったかもしれない。 空は、幼いころ母親だけにはある程度心を開いていたらしいのだ。 空は、その持っていたスナイパーとしての能力があまりにも高かったために、 十の年を数える前に、母とは共に暮らすことができなくなっていたので、記憶はその前の物だった。 母に対しては、すべてを投げ出して守ってあげたい、空はそう思っていたことを思い出していた。 この陽子と言う人物には、守ると言うよりは、すべてを放棄して仕えたい、そう感じていたのだが。
 それにしても、日本人にはあり得ない容姿だと空は思った。
 この時、空は「胎果」と言う言葉を失念していた。 呀峰の州城にいた時に呀峰から寝物語に聞いたことはあったかもしれないが、 想像もつかないような知識はいくら記憶力があっても覚えきれるものではないのだ。
 最も、常世に住んでいる者であっても「胎果」の意味を正確に説明できる者は少ないかもしれない。 鈴や空のように、蓬莱の人間が常世に流されてくるのとは異なり、 胎果は蓬莱では皮をかぶっているようなものなのだ。こちらへ来ると、本来の姿形に戻るのである。
    空はそのことを知らなかったので、あんな髪と瞳を持つ人間は日本にはいないはずだが、と不思議に思った。

 柴望の挨拶に答えて、陽子は、 「では、本当だったんだ。下官が知らせてくれたんだよ、 柴望が禁門からこちらへ訪ねてきているって。和州は大丈夫なの?」
と、聞いていた。
「はい、思ったよりは問題は少ないようでございます。 呀峰のやり方がひどすぎたのでございましょう。 私の様な者でも、前よりはいくらかましと受け入れられているようでございますよ」
「それは良かった。老師(せんせい)、今日は朝議が早く終わったので、 お訪ねして何かお話をしていただこうと思いましたので、 それもあってこちらへ寄らせていただきました。宜しいでしょうか?」
「もちろんじゃとも。柴望の話も聞きたいのではないかな?」
「はい、ありがとうございます」
「とにかく中へ入りなさい。桂桂が冷茶を入れているはずじゃ」

 三人は、さっきの書斎の様な奥の部屋へ入ってきた。 空は、さらに注意深く様子を観察する。そんな空の周りをぞわりとした気配が通り過ぎた。 先ほどの白陀に似ている気配だった。大きな生き物のようだが、目には見えない。 とはいえ、翼が無くても空を飛んだり、 どう見ても爬虫類の身体を変化させて人間と同じ形になる生物が存在するのだから、 目に見えない生物等いても当然だと思いながら、空は草を抜いていた。空を襲うつもりはないようである。

「さて、今日は柴望もこうして訪ねてきておるし、陽子も来てくれたのじゃから、 皆を呼んで昼餉でも一緒にしようかの?」
「それはうれしい。柴望、時間はあるの?」
「はい、もちろんです。それぐらいは大丈夫です」
「誰を呼ぼうかな? ん? 何、班渠。言いたいことがあったらどうぞ」
ぼわんと大きな犬の様な頭が床から生えたように見えた。 空は少し驚くが、そのくらいのことでは押し殺している自分の気配をさらしてしまったりはしない。 あくまでも、下草を抜いている下男を装う。

「………………」
「誰だかわかる?」
「…、………………」
陽子は、笑った。

 空は、心の中で首をかしげた。あの生き物も話ができるのか?  それとも、仙はあれらの言葉も解することができるのか?

「なんだ、みんなこっちに来るんだ。柴望が来たことを知っているのかな?」
陽子が独り言をいう。それを遠甫が、受けて説明した。
「いや、知らんじゃろう。陽子は禁門の門番に気に入られているのではないかな。 わしが内緒にするように頼んでおいたからのう」
「え? そうなんですか。じゃあ、柴望はお忍びで来たわけなの?」
「そういうことになりますかな」
「そっか、よし!」
なぜか、気合の入った確認をする陽子。それを見た遠甫は笑う。
「ほっほっほ、陽子や。門番とあまり仲良くせんように頼むぞ」
「あれ? もうばれたのか。いや、私が気に入られているんだったら、 次にこっそり出て行くときは、大目に見てもらおうと思っていたのに」
「はは、まあ、台輔に相談してから遊びに行くと良いじゃろう」
「ううん、確かにそうなんですけどね。じゃあ、男たちはいいとして、そうだ、桂桂!」
パタパタと元気に走ってくる音がする。
「○○○!」(はあい)
「悪いんだけど、鈴と祥瓊をここへ呼んできてくれないかな。今日の昼餉はここで取るから。 ああ……そうだな、虎嘯も来ると思うから十人分ぐらい用意してもらって!」
「○○。×%&▽★☆@@」(はい。わかりました)
「そうだね。桂桂が手伝ってくれると助かるな」
「+□、*RR$#!」(では、行ってきます!)
そういうと、桂桂と言う男の子は門から外へ走って行った。

 空は、下を向いて下草をのんびり抜いている雰囲気を醸し出す。 先ほどの白陀と同じ気配を持つ生き物も、もうこちらには寄ってこないようだ。 柴望は、うまく空のことを外して、和州での様子を陽子に報告していた。
 やがて、空は桂桂と呼ばれた男の子と一緒に、 若い女性二人と青年と思しき年かっこうの男が一人こちらに近づいてくるのを感じ取った。 三人の話し声もよく聞き取れるので、彼らも仙なのだろうと思った。 そして、その三人のうち一人の少女は、先の陽子と呼ばれたこの国の国主と同じように、 クリアな発音で話していたのだ。 幾分、古風な物言いだとは思ったが、自分と同じ海客なのかもしれないと、空は考えた。
 三人は柴望に改めて自己紹介をして、二人の女性は桂桂と共に厨房へ行き、男は外へ出て門の所に立った。 しばらくして、また床から大きな動物の頭が表れ、陽子と呼ばれていた若い国主に、何か報告する。 それを受けて、陽子は桂桂を呼んだ。

「○○!」(はい!)
「ああ、桂桂。班渠がね、もうすぐ景麒と浩瀚と桓たいがこちらにつきそうだっていうから、 一足先に行って、門をあけてくれないか。それと、虎嘯に冷茶を持っていってくれる?今日は暑いからね」
「○○、▽××#、&&R□★!」(はい、それでは、持っていきます)
大きな声で返事をしてから、桂桂はその部屋を出て行った。

 空は、草を抜き続けながらも、浩瀚と言う名に反応していた。 かつて呀峰が敵と呼んでいた麦州の州侯が同じ名だったからだ。 空が呀峰の執務室に忍んで聞いていた情報では、確か州侯の任を外されて、 明郭で反乱をおこす計画を立てていたと言うことになっていたはずだ。 その男がここにいるのだろうか? それとも、同じ名前の違う誰かなのか?  空は、さらに集中して確認しようと思った。