遠甫と空





 太師邸では、木々がこんもりと茂り、他の建物とは少し様子が違っていた。 門をくぐり中に入ると、湿気の含んだ空気が感じられる。 空はそれまでは雲海の上では乾燥していてさわやかに感じることしかなかったので不思議な気がした。 どうも、わざわざこんもりとした自然な雰囲気を出そうとしているかに見えたのだ。
 遠甫は先に立って二人を奥まで誘った。
 飾り気のない机といすが置いてあり、遠甫はそれを二人に勧める。
 空は、初めは自分が座ってよい立場だとは思わなかった。 和州で呀峰につかえていたころは、身分を無視すると大変なことになったからだ。 空は、低い身分となり高い身分の者に仕えている方が簡単だったが、座ることをすすめられて却って躊躇した。
「さあ、遠慮なく座りなさい」
遠甫から直接そう言われて、柴望の斜め後ろの席に着いた。

 外からは蝉の声が聞こえる。日も高くなり暑さが増している。 とはいえ、やはり雲海の上なのだ。下の世界よりもだいぶ過ごしやすくなっている。 涼しい風も開け放たれている部屋を抜けてちょうど好い塩梅に入ってくるようだ。

「老師(せんせい)、この娘が『渡辺 空』という海客です」
「ふむ、娘さん。ぶしつけに申し訳ないがお顔を上げてもらえるかの?」
空は、顔を上げた。それは、自然体に近い空の顔だったので、あまり印象に残らない作りとなっていた。 柴望にとってはこちらの顔の方が見慣れている。
「実は、老師を和州の州城から見つけ出すのにも役立ってもらったのです」
「ほう? というと?」
「はい。空は『空玲』という名で、呀峰の後宮にいたのです」
「おや、そうだったのか」
少し、二人は言葉を切った。改めて空の顔を見る遠甫だったが、 なぜこのような娘を呀峰がそばに置いたのか解らなかった。 美人でもなく艶があるわけでもなかったからだ。 とはいえ、男女の仲は容姿だけではないので、納得したように首を縦に黙って振ると、 遠甫はまた、柴望に訊ねた。
「で、どんなふうに役立っていただいたのかね?」
「はい。初め主上から老師を探すようにと命を受け、和州のあちこちで聞き込みをしたのですが、 一日目はらちが明きませんでした。二日目に後宮にも行ってみようということになり、 四つ目の部屋で空に会ったのです。 空は、呀峰から老師のことを聞いていたらしく呪のかかった庵のような住まいに軟禁されていると証言してくれました。 それで、老師を見つけることがやっとできたのです」
「おお、そういうわけだったか。その時はお主はいなかったがどうしておったのじゃ?」
「空玲の屋敷で、和州師に襲われたんですよ」
「それで、わしのところに来た夏官殿とは行動を別にしたのじゃな?」
「面目ございません」
「いやいや、大事なくて良かった」

ミーーンミンミンミンジーーィ

蝉の鳴く声がこの太師邸の静けさを呼び込むようだ。

「そのあと、私は空(そら)つまり空玲と呼ばれる呀峰の妾姫がどうなったのか密かに心配しておりました。 海客だから行くあてもないと空自身が言っていたからです」
「ふむ、それで、今度はお主が和州侯として入って行ったわけじゃな?」
「そうなのです。空は、その時は下女……というよりは下男の格好をして、 和州の人たちにまぎれて、城にいたそうです」
「では、空玲ではなく空として働いていたのじゃな?」
「そうでした。そのまま何事もなければ、 空とこうして金波宮に来ることもなかったかもしれません。しかしながら……」
「ふむ、狼藉があったそうじゃの」
「おや? ご存知でしたか」
「うむ、桓たいの丈身を連れて行ったじゃろ?」
「はい、五名ほど。皆、本当によくやってくれます」
「それが、彼らの間で密かに話題になっておるらしいでの」
遠甫は、そこで顔の表情を崩し、好々爺の笑を作った。
「それは? どういうことですか?」
「ふむ、みな丈身たちは怪我をしたそうじゃの」
「はい、軽い者もおりましたが、深手を負った者もおりましたので」
「全員が元気に揃うたところで、狼藉者を倒した者がその中に誰もいないと言うことが分かったんじゃよ」
「はっ、そこですか!?」
「うん、そこなのじゃよ。丈身たちは、和州師のだれか、 もしくは射師の中の誰かが、お主に味方して駆けつけたと思っているようじゃな」
「ううむ、そんなことを思っていたとは」
「お主は何も書いてよこさなかったが、ひょっとしたらその狼藉者を葬ったのが そこにいる海客の娘さんではないかと思っての」
「あ!老師……なぜそれを?」

空は、二人に話をじっと聞いていた。二人とも今では仙なので、 最も遠甫はもう随分と長い間仙であったが、その内容は大変よく理解できた。 空は、遠甫の恐るべき洞察力に驚いた。
 確かに、丈身たちは空が和州師の狼藉者を切り捨てたところは見てはいないのだ。 空も自分の姿は柴望にだけ見せればよかったので、余計なことはしていないつもりだった。 丈身たちの怪我は、みなまちまちの症状だった。全快した日数が微妙にずれたおかげで、 彼らは柴望を守ったのは、自分たちのうちの誰かだと最初は思い合っていたのだ。 それが、次第にそうではないことが分かり始め、一体誰のおかげで自分たちが助かったのだろうと思っていた。 彼らは、柴望が何も語らないので、あえて聞かないでいたらしい。
 その状況、丈身たちの情報を、遠甫は何か知っていたのだろう。 空は、この老人は侮れないと思った。呀峰よりもずっと思慮深く、 真実を見抜く力を持っているのだろうと感じた。

「渡辺 空殿と申したかの?」
遠甫は、空に向かっていつくしむようなまなざしを送る。
「私の弟子の命を救っていただいて、お礼の言葉もない。 こんな弟子でも、今は和州を納める州侯じゃ。今の慶には必要な人間での。よくやってくれた」
穏やかな笑顔には嘘は無い。空はそう思った。 感情が自分の心には浮かばない空にとっては、 自分だったらこういう表情のときはこんな気持ちになると覚ることはできない。 表情や呼吸の仕方、脈拍やそのほかの全体の雰囲気を客観的に分析して人物評価をするわけだが、 ひとかどの人物であることは間違いないと認識したのだ。

 空は、黙って座ったまま深く頭を垂れた。
「さて、空殿。少し話をしてもらえるかの?」
空は、柴望の顔を見た。
「空よ、このお方こそ今の慶には無くてはならない人物、三公の筆頭、太師。字名を遠甫とおっしゃる方だ」
柴望がそう言うと、空は初めて声を出した。
「渡辺 空と申します。どうか、ソラ、とお呼びください」
「おお、それでは空、何から話してもらおうかの」

 遠甫は最初、柴望が狼藉者に襲われた時のことを詳しく話してほしいと語った。 そこで、空は、内殿に怪しい下男が行き来していることに気がついたことから、 隧道に隠れて決起を待つ州師のようすや、当日柴望を襲う様子などを順を追って詳細に伝えた。
 それを聞いた遠甫は、卓越した身のこなし武術剣術の巧みさはもちろん、 話の無駄がなく論理構成が見事であることを知って驚いた。
「柴望……」
「はい?」
「お主良く生きておるの」
「いや、全くです。空がいなければ私は今頃むくろになっていたことでしょう」
「陽子が新しい和州侯を選ぶのに頭を痛めておったろうのう」
「そんなことにならなくて、本当に良かった。あ、いや和州侯は別に私でなくてもよいのですが……。 ですから、この空に何かして報いたいと思ったのです。空にとって一番良いことは何なのかと」
「そうじゃな。和州にいてもらってお前の警護を務めてもらうという手もあるのだが」
「もちろんそれも考えました。しかし、空の希望は常世のことをもっと知りたいと言うことでした。 それに、空には心の病があると言うのです。 それも気になって、老師のおそばに置いた方が空にとっては良いのではないかと考えるようになりました」
「ふむ、心の病とな? 空よ、それはどんな病なのか説明できるかの?」

空は、蓬莱の病が常世の病と同じなのかどうか解らなかったが、できる限り伝えようと試みた。

「感情がないというのか?」
遠甫は誠に不思議であると言う顔をした。
「無いかどうかは解りませんが、いわゆる喜怒哀楽と言う物を私は理解できません」

そこに、かわいらしい声が聞こえてきた。
「○▽★&&! ××&@@●□」

「おう、桂桂じゃな。では、空。そちの実力試すわけではないが、 今から数刻の間、ここに客が来るでの。その間客たちに気付かれぬように、 わしや柴望のことを見守ってくれるかの」
「わかりました、ではすぐに……」

そう言った瞬間、遠甫と柴望にはその場から空が消えてなくなったように感じた。 空が座っていたはずの椅子の上には、人の抜けた襦裙がはらりと落ちていただけであった。

「柴望や、空はいつもこうなのか」
「はい、いつもどこにいるのかもさっぱりわかりません。 このように服を脱いでいなくなったのを見たのは初めてですが」
遠甫は少し頭を抱えていたが、すぐに襦裙を拾って袖だたみにすると、後ろに書棚に仮に入れた。 それと同時に、
「遠甫、ただいま! 厨房でお茶をいただいてきました。 あ、お客様ですね。ようこそいらっしゃいました」
そう言って、少年が柴望に向かって丁寧に拱手した。
 桂桂である。
「おお、桂桂お帰り。こちらに居るのが、和州侯をしておる柴望じゃよ。 固継にいたころは心配をかけたの。あの綿布の男じゃよ」
「えええーー! ほんとですか!! あ、失礼しました。 お客様の前で大きな声を出しちゃった。ごめんなさい」
「いや、こちらこそお邪魔しておりますぞ。桂桂どのとおっしゃったか。老師をよろしく頼みます」
桂桂は、柴望が自分を一人前扱いしてくれたこと喜んで、顔を真っ赤にして、
「はい、解りました!」
と、叫んでいた。
「ほっほっほ、桂桂や、冷茶を入れておいてくれるかな、 陽子もそろそろ来るじゃろう。今日の朝議は難しい案件は無かったはずじゃからな」
「は〜〜い」
元気な返事を残して、桂桂は奥へと走って行った。