――実に不思議だ――
空はそう感じていた。
呀峰と共に明郭の処刑場に出かけた時は、蓬莱時間にしてほんの数分だったろう。
乗り手の腰に腕を回し、つかまっているだけで、自然に凌雲山の出口から街まで下りていったのだ。
その時には気付かなかった。
獣、のはずなんだがそんな物に乗っている気がしない。
蓬莱にあるどんな乗り物よりも静かな気がした。
かなりの高低差があるはずなのだが、気圧の差を感じない。
それどころか、生身で飛んで行けば必ずあるはずの風を切る感覚が薄い。
そう、全くないわけではないのだが。それにかなりスピードが出ている。
強いて言えば、無音で無振動のセスナか、大型ヘリか?
最も、それは乗り手の技術と、騎獣の能力によるのかもしれない。
空は、計り知れないことはあまり考えないことにしていた。
本日未明、まだ空が真っ暗なころ、迎えの下官が後宮まで来て襦裙姿の空玲を呼び出した。
その襦裙の下にズボンのような下着を履くように指示され、急いで身につけるとそのまま、
内殿を出て雲海の下に移動した。そこは、和州城のある凌雲山の崖に突き出た平らな場所で
、六頭の不思議な生き物と、柴望と、兵士らしき者が五名すでに到着していた。
空は、静かに両ひざを地に着け頭を垂れた。
先日空を見に来た兵士が、手真似で馬のような形をした獣に乗るように空に伝えた。
空は指示通り乗って見せると、その兵士は感心したようだった。
「○○X%%、@YYL&□!」
柴望に向かって、その兵が何か言うと、
「一度乗ったことがあると言っていたよ」
と柴望が答えていた。
真っ暗な中、六頭の奇獣は和州の空に飛び立ったのだ。
東の山の端が僅かに白々としてくるころ、きれいに区切られた田の傍に着地した。
湿気と青い稲の香りがする。細かい虫が無数に飛んで、降り立った兵たちにまとわりついている。
そんな羽虫を振り払いながら、しばし休憩を取るように柴望が語っていると、
空の見知らぬ男や女が何人もやってきて、次々に柴望たちに向かって腰を折りお辞儀をしている。
何か植物を渡していた。空は田の稲ではないかと思った。
そういえば柴望は景王に稲の花を見せることにしたと言っていた。
そもそも、空の提案だったのだ。それにしても、この人たちは明るい声で口々に何か言っては手を組み、
恭しく頭を下げている。何か良いことがあったようだ。
それは、州侯が変わったことと関係があるのかもしれない。
柴望たちに礼を言っているのだろうか。空は考えを巡らせた。
そのあと、六頭の騎獣は一気に空を駆け上り、
少しずつ明るくなっている方向へかなりの速さで飛んでいった。
まるで、朝焼けに突っ込んでいくような飛び方だった。
しばらく行くと、とてつもなく細長い山が正面にはっきりと見えてきた。
五人の兵が口々に何か叫んでいる。柴望が、
「あれが金波宮のある凌雲山だ」
と指さしたので、空にもわかった。
――重力がめちゃくちゃだ。あんな山の形はあり得ない――
空は、この世界は本当に理解しがたいと感じていた。
――あんな形では、自重でつぶれてしまうはずだ――
難しい顔をして黙っている空の顔を、彼女を乗せている兵が振り返って見た。
「×○☆☆、%&S##@!」
何か声をかけてくる。空には理解できなかったが、優しい声色だったので、少し口端を上げ笑顔を作る。
「$GA▽A!」
兵がもう一度言った言葉は、空が覚えている言葉の中では、
大丈夫とか良かったなとか、そんな意味だったような気がした。
山肌が近づいてくると、あの細長く見えた山がとてつもなく大きいことが分かった。
空は完全に明るくなり、夏の太陽が顔を出している。
時刻は早かったが、あたりはすっかり闇を抜け、すべての姿をさらけ出していた。
田は少なくなっていた。むしろ荒れ地が目立つ。乾いたほこりの香りがする。
家が立ち並ぶ場所もある。段々と、建物の密度が増していった。
――明郭よりは少し大きい街か?――
空は思った。
やがて、明郭をたった時と同じような形の着陸場らしきものが山の中腹に見えてきた。
否、中腹というよりはかなり高いところのようだ。
それに、近づいてわかったことだが、明郭の物よりもだいぶ大きく、広かった。
六頭の騎獣が着陸すると、騎手をしていた者は降り立ち、隊列を作った。
そこには出迎えの人物が穏やかに笑っていた。
その人に向かって、柴望たちは規律正しく跪礼した。
空は一番後ろで、平伏とまではいかない程度に膝をつき頭を深く下げていた。
「これは和州侯、ようこられた」
「は、太師もどうやらお元気の御様子で何よりでございます」
――柴望と老人とが話をしている。「太師」ということは、あれが遠甫という人か?――
空はまだ平伏していた。
柴望が、
「空玲、立ってこちらに来るように。
空行師の皆、ご苦労だった。帰りまでしばし休まれよ。また帰路に着くときは頼む」
と言った。
この言葉を合図にするかのように、空行師はこちらの金波宮側にいた兵に騎獣を預け、
勧められるままに、大きな門を入ったすぐそばにある兵舎のような場所へと移動していった。
と、同時に柴望は遠甫と空と三人だけになって、禁門の中へと入って行った。
「老師(せんせい)、官吏の検分を済ませなくても大丈夫ですか?」
柴望は、階段を進みながら訊ねた。
「お主一人だと言っておいたのだよ。州侯を検分する必要もないじゃろう?」
遠甫がそう答えた。
「いや、そんなことはないと思いますが、何か策を用いたのですか?」
実際にはもう一人連れがいるのだ。もちろん空玲、すなわち空のことだ。
「うん、お主から一月ほど前に文をもらってからわしも考えたんじゃが、
記録に残さないほうが良いのではないかと思っての?」
「やはり。どうやって彼らを撒いたのですか?」
「その言い方は随分穏やかでないの。
何、わしがこの時間代わりに努めるといって交替したんじゃよ」
「……!?」
「ほっほっほ、ほんの一刻ばかりじゃ、簡単だったぞ」
「いや、太師がそうおっしゃったのなら、交替しない者はいないかもしれませんが」
柴望はやれやれという顔をした。
「それより、その手に抱えている物は何かの?」
「こちらでございますか? 主上に献上しようと思いまして。
拓峰の田で育っている稲でございます。うまくいけば昼ごろ花を咲かせましょう」
差し出した草の束は、青臭く泥のにおいがした。
「なるほど、それは良いかも知れんのう」
そう言いながら、二人は呪のかかった階段を上がり、太師の官邸へと進んでいった。
もちろん、空も空玲として二人についていったのだが、
二人はそれをあまり意識していなかった。
遠甫と柴望は、久しぶりに会った恩師と教え子の関係にすっかり浸ってしまったこともあるが、
空はもともと気配を絶つことに優れているので、華やかな襦裙を着ているにもかかわらず、
遠甫にはとうとう何の興味も抱かれずにすんだのだった。
柴望が遠甫に出した手紙には、海客を一人連れていくので助けてほしいと
簡単に書いてあっただけなのだ。詳細を書いて後に残っても面倒だと柴望が感じたからである。
太師の官邸は、この時間帯は非常に静かだ。陽子は諸官と共に朝議に出席している。
金波宮内に残っている禁軍も、朝議の護衛や訓練で忙しい。
虎嘯も内殿の見回りついでに、拓峰から連れてきてこちらの下官になった者たちに声をかけたりしている。
祥瓊は女史としての下調べが、鈴も女御としての働きが沢山あるので、
呼ばれたりしなければ太師邸にはいないのだ。
太師邸の門を開ける前、柴望は今回の訪問で二番目に重要なことをやっと思い出した。
「老師(せんせい)、実はこの者が以前の手紙でお知らせした海客なのです。
いささか事情が複雑で、文にはできなかったのですが、宜しければこちらに置いていただき、
ご指導などしていただけるとありがたいのですが?」
「そうだの、ちと話を聞いてみるかの」
「お願いいたします」
そう語り合い、三人は太師邸の門をくぐった。
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