柴望と空と空行師





あれから、五日ほどたった和州城、柴望は未明から堯天へ出かける支度をしていた。
夜明け前の報告があってから、柴望は和州の空行師の中でも特に飛行に優れた乗り手と奇獣を五頭分用意させた。 彼らなら、拓峰へ寄って稲の花を受けとってから金波宮へ行っても、四半日といったところだろう。
柴望は、和州の現状を報告すると共に、これからの慶のために和州はどう発展していけばよいか遠甫や浩瀚、 できれば陽子や景麒とも相談したいと思っていた。書簡ではどうしても十分に伝えられないだろうと感じていたからだ。 刻々と変わろうとしている明郭や拓峰を見ると、混乱の中にも光が見えるように思えてならなかった。
具体的な懸案としては、新しい牧伯の配置を要求するつもりであった。 今の牧伯は、体調不良ということで金波宮に戻され、現在和州に牧伯は不在である。 このままでも州の政務にはあまり影響はないかもしれないが、あくまでも緊急の措置だ。 牧伯は監視役でもあるのだが、逆に中央との調整役でもある。本来ならば、中央の情報をいち早く入手し 堯天の指針を説明することもその仕事の一部であったはずだ。 州の政に対して批判するだけでなく、協力するのも本来の姿勢なのである。 先の牧伯は和州の気まじめな官吏からは呀峰の時代から不満があったようだ。 もちろん、呀峰が州侯だった時には、官吏は不満など口にすることができなかった。 牧伯が仕事もせずに酒浸りになったのも、呀峰の圧力からだったろう。 しかし、どこにでもいる普通に仕事をしている官吏たちから見れば、 中央の役人は何をやっているのだと思われても仕方がないのだ。
柴望は、いくつかの懸案を書面化してもち、金波宮にいる昔からの知人には少しばかりの土産も用意して、 残るは空をどうやって不審に思われずに堯天に連れていくかということだった。

「空、いるか?」
柴望は出発の日を決めるとすぐに、空を呼び出した。
「はい、おそばに」
音もなく、彼女は現れる。 いつもどうやって過ごしているのか柴望は不思議だったが、特にそのことには触れずにいた。
「四日後に、金波宮へ行くことにした。奇獣に乗って空を飛んでいくつもりだが、 奇獣には乗ったことがあるかね?」
「はい、一度呀峰さまに乗せていただきました」
「そうであったか。では道中の心配はそれほどないか。 ところで、実はお前のことをどうやって連れ出すか思案しているのだよ」
空は首をかしげる。
「うむ。正式な下男というわけではなく、いないことになっている人間を一人同乗させることになるのでな」
空もしばらく考えていた。ややあって空のほうから提案をしていた。
「では、元に戻ってはいかがでしょう?」
「元に戻るとは?」
「空玲として出ていきましょうか?」
「おお、そうであったな」

空は、素顔が年齢性別不詳である。 髪型、化粧、装いでいくらでも印象が変わる。 それは、自分自身の感情が無いために自己の形成が難しいという心理的な病気を逆手にとって、 訓練を積んだ成果なのだ。もちろんどんな人間にでもなれるというわけではない。 空にもなりきれない人物像はある。 しかし、空は目的さえあれば普通では考えられないほどの多様な人物になりきることができるのだ。
柴望は、空玲として空を知っているのではなく、 少年のような庭師の空として知っているのだ。 空玲として空に会ったのは、半年ほど前、しかも一度だけである。 今では、うっかりすると女性であることも忘れてしまうほどであった。
空玲の行方は、和州内では詮議の対象になっていない。 したがって、今でも内殿の中にすんでいることになっている。 そもそも、呀峰は自分の妾を正式に迎えたりしていないので、 四人いた妾姫は空玲を除いて、すべて元の戸籍通りに戻しただけであった。 空玲に至っては、海客であるため戸籍すら作っていない。 その空玲を海客として認証し特例を持って戸籍を作ることは今の慶の法律でも可能だ。 それには、堯天の上層部に本人を確認してもらう必要があった。 これは、柴望が空玲個人に対して、思い入れが強すぎると言う負の評判を買うことになるかもしれないが、 不自然とは言えない。表向きには、遠甫発見の功労者とでもしておけばよいのだ。 それは、全くの嘘ではないのだから。
また、「呀峰の愛妾」ということは、呀峰と同じく金波宮にとって危険な存在という解釈も成り立つ。 場合によっては和州内で詮議もありうる話だったが、連れていく空行師たちのなかで、 そこまで詮索する者はいないと思われた。
「連れて行ってしまえば何とかなる」
柴望にしては珍しく、出たとこ任せの策になってはいたが、実際はそれが一番無難な方法だった。

「ふうむ……」
柴望は、空の姿を見ながら難しい顔をしていた。 空は、表情の変化に気づいてはいたが、柴望に対して何も尋ねたりはしなかった。 柴望は、しばらく思案した後、多少言いづらそうにしながらだが、空に尋ねていた。
「空よ」
「はい?」
「何か、女の姿に戻るのに必要な物は無いのか?」
「はい、おそらくは」
「どうやって、元に戻るつもりか話してみよ」
「はい。呀峰さまにお世話になっていた所には、 あのころの物がすべて残っていますので、それで支度をいたします」
「そうか? うむ、湯あみの必要などは無いのかね?」
「それほど汚れてはいないと思いますが、侯のほうで必要だとおっしゃるのならば……」
「いや、その必要はないが……」
「御心配のようですので、もしお時間がとれるようでしたら、一度、見ていただければ幸いですが」
「そうか、では出発は四日後の未明になる。 明後日の昼ごろであれば時間は開けられる。そこで、空行師に引き合わせよう。良いかね?」
「かしこまりまして」
「支度の間、わしのそばにいなくてもよいぞ」
「ありがたき幸せ。されどそれほど時間のかかるものではございません」

空は、柴望の命を守るようにと請われてから、できる限り詳細に彼の活動を確認してきた。 いつどこでどのような行動を取るのか、把握していなければ何もできない。
内殿から外殿へ出る場合は、空にもうまく出ることができなかったので、 外殿の先へ柴望が視察に行くような時は、彼の丈身たちに任せるしかなかったが、 内殿ではほぼ完ぺきに柴望の行動を記憶し、影から見守っていた。 空は、常世の人間と比べて、恐ろしく早く移動することができたので、 執務室の近くにいれば、どんな緊急時にも守ることが可能だった。 幸い、柴望はほとんどの時間を執務室で過ごしていたので、 空にとって柴望の警護は蓬莱での任された仕事と比べても比較的簡単な任務に属していた。

四日目の朝議の後、柴望は明日の金波宮訪問に同行することとなった空行師の頭と共に、後宮へ訪れていた。
「侯、お尋ねしてもよろしいか?」
「遠慮なく、申せ」
「ありがたき幸せ」
州軍の中では、新王について自分たちが従うか反目するか、初めのうちは拮抗していたようだ。 それが、自然に拓峰の乱を納めたあの新王なら就いていってもよい、就いていきたいと考える者が増えていった。 この頭も卒長級の男だったが、陽子の行ったことや柴望の人となりを見て赤楽の時代に期待していたのだ。
前の州侯であった呀峰は、部下の謀判を大変恐れていた。 軍備を増強し、州軍に対しては高待遇であったが、言動には厳しかったのだ。 身分を楯に取り、下官の直答を許さなかった。 後から来た柴望に対しても、本当に口をきいても大丈夫なのかという心配があったようだ。
柴望は、州侯の就任挨拶でも、その後の朝議でも、 話をしたぐらいで罰することはしないとさんざん言ってきたため、 しんと静まり返っていた内殿も、だいぶにぎやかにはなってきたのだ。
「後宮にいた姫は、皆希望するところに帰ったのではないのですか?」
「その通りだ。しかし、四番目の姫は帰るところそのものが無かったのだよ」
「ともうしますと?」
「海客だったのだ」
「なんと!」
空行師の彼は驚いていた。当時の慶では海客は一段下に見られ差別されていたからだ。 卑賤な身の上で仮にも州侯の妾などと、彼はそう思った。
「侯、いや呀峰はいつそんな姫を囲っていたのか?」
ひとり言のようにつぶやく空行師に、柴望は詳しい事は私も知らないと答えていた。

 夏の日差しは雲海の上でもかなり強く、長い回廊は汗を誘う。 二人とも手巾を懐から取り出しては額をぬぐっていた。
 やがて、回廊の端の小さな建物の入り口に着く。
 その、すぐ向こうに慶では廃止されたはずの伏礼をしている女がいた。空行師の男がまず口を開いた。
「そなたが空玲か?」
「はイ。さよウデゴザいまス」
不思議な抑揚で、伏礼したまま答える女はさらに地面に近く頭を下げた。
「侯の御前であるが、特別に許可をいたす。面を上げよ」
ゆっくりと、頭を上げた空は、さわやかな若い娘を演出していた。その美しさに、空行師の男は息をのんだ。
――この娘なら、呀峰さまが妾姫に迎えてもおかしくない――
そう思うほどの化粧の出来栄えであった。
涼しげな眼もとは薄紅に彩られ、朱赤の口紅は小さく上品にまとめられている。 襦裙は橙色に百合の花。とてもよく似合っていた。
空はあえて呀峰に下賜されたものではなく、 以前明郭の妓楼を出るときにおかみから無断で借り受けたものを着用していた。 これから、この州城を出ていくのだという気持ちを表したほうが良いだろうと思ったからだ。
空は、この慶国の美人という形はどんなものか、明郭の妓楼でそれとなく学んでいた。 艶のある化粧と、そうでない素人の化粧は比較してみれば説明などなくても解ることは多い。 同じ妓楼でも、どういう演出で男を誘うかは、それぞれの能力だからだ。 一番の売れっ子と、入ったばかりの娘では同じように化粧したのでは商売にならない。 まだ新人はまだ素人である部分を売りにしなくてはならないのだから。 空はそれをよく見てまねていた。今回は、そんな堅気の娘風な化粧をしていたのだ。
 空行師の男は、仙ではなかったので、
「これから、侯から直接お言葉を賜る。心して聞け」
というと、一歩横に身を引いた。
柴望は、
「空玲よ、良く聞きなさい」
と優しく声をかける。
「はい」
と、うれしそうに微笑みながら返事をする空。
この様子を見て、空行師は柴望と空がある程度親しいのだと推測した。 今回金波宮へこの娘を連れていくのも、自分の妾姫にするつもりなのだろうと、勝手に想像していた。
――呀峰が囲っていた少女、しかも海客だと言う。確かに言葉が変だ。 他の姫と違って帰るところが無いと言うなら、侯が自ら世話をしようというのも頷ける。 だから、直接金波宮へ乗り込んで、戸籍でも作ってもらうつもりなんだろう。なんだ、侯も結構やる――
すっかりそう思い込んだ空行師は、下を向いて笑っていた。

柴望は、明日の早朝に出発すること、空行師の操る奇獣に乗っていくことを伝えた。 朝早く下官を迎えによこすと告げて、この場は終わりにした。
柴望は、どうやら自然な形で空を金波宮へ送り届けられそうだと感じていた。 空の戦闘能力に呀峰が気づかなくて本当に良かったと思っていた。 明郭の乱でも、首謀者を暗殺せよ、などと空に命令が出ていたら、 私は今頃戦場の藻屑になっていただろう。そう思うと背筋がぞっとした。