赤楽二年八月の半ば、朝まだ日もろくに上がらぬうちから駆け足で州城の内殿入り口まで急ぐ下官の姿が見られた。
ここは和州、州都のある明郭である。つい最近まで呀峰というとんでもない為政者が民を虐げてきた、
慶国の中でも評判の圧政地域だったのだ。それが今、新しい州侯を迎え昔の活気を取り戻そうとしていた。
明郭は、慶国の交易における要所となっている。苦労は多いが、その報酬として豊かな経済活動が営まれてきた。
呀峰はその豊かさを自らが中央へ出向いて政を取り行うという野心のために使おうとしたが、この明郭、
十二国始まってからずっとそういった為政者に踏みにじられてきたわけではない。
また、この場所は州都の街並みの中心から少し離れれば、豊かな田が広がる、慶国切っての穀倉地帯でもあったのだ。
それが、ここ何代かの景王の任期の短さと不当な税で、しだいに収益が落ちてきていた。
確かに、昔は田の収穫のうちせいぜい二割も税に徴収すれば、今の政を運用することが可能だったかもしれない。
それが、さらに努力を積むことなく、天変地異に抗する策も用いず、私利私欲の官吏に任せていては、
収益は減る一方だ。同じ州政を執行するとなれば、税の取り立ての割合が、次第に高くなるのも、
別の観点から見れば自然なことだったのかもしれない。
とにかく、柴望が州侯に就いたことで、和州も変わろうとしていたことは確かだった。
空は、まだ遠い下官の足音が、かなり早めに動いていることと、
確実にこちらに近づいていることを自分の五感を使って感じ取ることができた。
何にしても時刻が早すぎる。蓬莱でいえば明け方午前4時くらいだろう。夏場とはいえ、まだ真っ暗だ。
柴望の丈身は、まだこの距離では夜中の番をして起きている者にも気づいてはいない。
それも確認して、空は、柴望の寝床から一丈ほど離れた所に跪礼すると、柴望を呼んだ。
「侯、侯……」
柴望は良く休んでいたが、次第に声を大きくする空に気付いた。
「おお、空か? この刻、もしやまた襲撃か?!」
柴望は、何かなければ空が自分を起こすはずがないと考えた。
すぐに寝巻を軽く整え、そばに置いてある短めだが実戦向きの剣を取った。
「賊かどうかはまだ判断しかねます。しかし、かなり急いでこちらに誰かが向かってきているのは確かです」
「人数はわかるかね?」
「おそらくひとりです」
「ひとりか」
柴望は少し安心したようだ。
「よし。空よ、私は、彼らを起こそう。どこか、この場が見やすい所にいてほしい。
何か事があったら宜しく頼む。私を助けてくれ。できれば狼藉者でも殺さずにな」
「かしこまりまして」
柴望は、空が音もなく消えたように思えた。
「おおい、誰か起きているか!?」
大きな声で呼ぶと、この時刻の見回り担当の丈身が、少し離れた回廊から
「は、ただいま!」
と、答えるのが聞こえた。
この声で、残り四人の丈身も目を覚まし、得物を取る。丈身の中の勘の鋭い男が、このころようやく気がついた。
「柴望様、誰か内殿の入り口にやってくる者がおります」
「ああ、そのようだな」
「お気づきでしたか?」
「いや、今日は何となく寝付かれなくてな。いやな予感がしたのだ」
「左様でございましたか。皆、おそばについておりますのでご安心を」
「そうだな」
空は、このようなやり取りを天井裏で聞いていた。
州城内殿の入り口では、柴望の丈身が見張っていた。
昼であれば取次の下官もいるのだが、この時刻では誰も起きていない。
柴望は、近くにいた丈身を一人呼んで、出入り口へと向かわせていた。
何かあってもここまで報告に来られるようにという、いわば用心である。
ところが、このような心配をよそに、駆けつけてきた者の顔は、
手持ちの灯りに照らされていささかおぼろげではあったが、明るい喜びにあふれていた。
「侯に直接仕えておられる方か?」
丈身かと聞くのは失礼なような気がした下官は、内殿入り口でそう礼儀正しく尋ねた。
どうやら、この下官は狼藉を働くわけではないらしい。
丈身が話を聞いてみると、以前柴望から頼まれたことの報告だという。
常識的には時間が早すぎるとも思ったが、丈身は取り次ぐことにした。
「そのもの以外はだれもおらんのだな?」
「はい、そのようです」
柴望は、その男を招き入れた。回廊を走ってきた下官は、平伏しようとしたのだが、
まわりにいた丈身たちの様子を見て、はっと顔を上げ跪礼の姿勢を取った。
「侯、ご報告いたします」
「うむ、聞こう」
「拓峰より早馬が到着いたしました」
「何かあったのか?」
「いえ、それほど火急な要件とは思えませんでしたが、
侯からできるだけ早く連絡をするようにと命を受けたとのことでしたので」
「おお、今年の稲作の件か!」
「左様でございます。知らせによれば、ここ四五日が良いところだろうとのことでした」
「その知らせならば、この刻に受け取る価値がある物だ。よく知らせてくれた、礼を申す」
「いえ、そのような」
「ああ、そちの報告確かに受けた。ゆっくり休んでくれ」
「では、失礼いたします」
下官は、今来た回廊をまた戻っていった。
「どういう事情かお尋ねしても?」
一番近くにいた丈身が柴望に尋ねてみた。
「うむ、実は近く金波宮へ赴く予定なのだが、いつにしようかと思ってな」
「こちらのご報告ですか?」
「ああ、和州は少しずつだが変わろうとしている。
ご安心くださいと伝えておきたいのだよ。他にもいささか用があってな、できれば直接私が行きたいのだ」
「お留守は一体どなたに?」
「はは、すぐに戻るさ。よく飛ぶ奇獣を使って行けば泊まらずに戻れると考えている」
「では、空行師にお伴を命ぜられるので?」
「そういうことになるな」
しばし、丈身との間に沈黙が漂う。
「それだけ信頼して、大丈夫でございますか?」
「そうだな、お前が心配するのも無理はないな」
柴望は、部屋の外にいる丈身を呼ぶように彼に命じた。
部屋のすぐ外を見張っていた丈身が、中に入ってきた。
「お呼びですか?」
「ああ、お主、先日私と一緒に空行師の兵舎に視察に行ったな?」
「はい、お供いたしました」
柴望は、まず和州の州軍を抑えようと考えた。
そこで、将軍をはじめ主だった者には直接会って話をするようにしていたのだ。
空行師は、先の乱のときには、かなりの人数が拓峰へ駆り出されていた。
そこで、陽子が景麒に騎乗して禁軍を恫喝したのを目の当たりにしている。
あの姿を見てひれ伏さない慶の民、いや兵がいたらその顔が見たいものだ、
と思えるほど、陽子の姿は凛として輝かしいものだったのだ。
その姿を見た者は、同時に赤楽の時代が明けた当初、慶を駆け抜けた一つの話を思い出した。
それは、新王自らが剣を抜き、偽王から景麒を奪還したという事実だ。
当時は新しい王への期待で胸を膨らませ、国中に広まった話だったのだ。
それなのに、いつしか男王でなく女王というだけで、そういった誉れ話は人々の間から忘れ去られてしまった。
やっぱり女王では、胎果の王では、といった負のうわさが広がってしまったのだ。
しかし、新しい時代を民人が願っていたのは本当だ。
だからこそ、あの陽子の姿を見た兵たちは戦慄したのだろう。ついに来たと、これから始まるのだ、と。
麒麟は民意の表れだと言う。民意を最も表せる者を天帝は麒麟を通じて王に選ぶという。
かの陽子を見たとき、兵たちは、「この話は本当だったのだ、里の閭胥から聞いた単なるおとぎ話ではない」、
そう感じたのだろう。
和州の空行師は、拓峰を攻めた時にその中に陽子がいたことを知って背筋が冷たくなったという。
もし、あのときの槍に主上が当たっていたら、そう思った者も一人ではなかった。
そんな自分たちを、主上は「お咎めなし」としたのだ。
十二分に忠誠を誓う者が出ても、それほど違和感の残る話ではないだろう。
「彼らをどう思った?」
視察に連れていった丈身に柴望はそう尋ねた。
「柴望様に対してはともかく、主上にはとことんついていくという強い思いが伝わってきましたね」
「で、あろう?」
今度柴望は、心配をした丈身に目を向ける。
「なるほど、とりあえず金波宮までは行けそうですね」
「おいおい、私は余ほど信用がないらしい」
「「「はははは……」」」
三人は笑った。
「心配はあるだろうが、私はどうしても一度行く必要があるのだよ。
この程度のことで妙なことになるようでは自分の運がなかったということになるだろう。
ここはひとつ行かせてくれないか」
「柴望様、思うままになさってくださいよ。我々は大丈夫ですから」
「ああ、すまないな。では日取りのほうを検討するか」
柴望は空の提案通り、稲の花を陽子に届けようと思っていた。
稲の花の開花時間はとても短いのでうまくやらなければならない。
しかし、どうせなら主上の思い入れの深い拓峰の稲の花がいいだろうと思っていた。
そのくらいの手間はとれるだろうとも計算していた。
拓峰には陽子のために協力してくれる者は、たくさんいたのだ。
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