ここは和州の内殿、州侯の執務室である。今、和州侯を務めるのは、柴望だ。和州の隣にある麦州の元官吏。
場合によっては、「和州の敵」であった男だ。
しかし、運命は流れ、敵であったはずの柴望が和州の政を任されている。
時は七月、和州で起こった乱から五カ月がたとうとしているわけだ。
元の州侯である呀峰は、己のために民人には重い課税をした。
収穫の七割と、中央から莫大な助成費用をもぎ取るための、たび重なる賦役。
この二つに民人はあえいでいた。我慢することで耐えていた人々が、拓峰の乱、明郭の乱、二つの反乱で我に返った。
本来であれば、乱の首謀者たちはたとえ成功したとしても極刑に処せられるところだったのだが、
新米の国王がその乱に加わっていたことで、思わぬ方向に落ち着いた。
もちろん、すべてのことはこれからなのだが、呀峰が納めていた和州の状態を「おかしい」と思っていた者が
多かったことは事実だった。柴望が州侯としてうまい具合に収まることができたのは、
実は呀峰の圧政が大きな原因だったかもしれないのだ。
これほどひどい政をしていなければ、柴望を否定する官吏がもっとたくさんいてもおかしくないはずなのだが、
今のところ、それほど柴望の仕事に支障が出ることはなかった。
「侯、こちらの報告書のことでございますが?」
「おお、どうした?州司徒」
「はい、今年は主上が玉座に就かれて二年となります。そのせいでしょうか、安定した天候に恵まれ、
昨年よりもさらに米の豊作が見込まれます」
「ほう、それは良い知らせだな」
「おかげさまで州の財政も潤うこととなりましょう」
「それを聞いて安心した。他の地官にもねぎらいの言葉をお前から頼む」
「ありがとうございます」
「うむ、次は州宗伯、そなたのところはどうなのだ?」
州の朝議が終わると、柴望の執務室には多くの官吏が出入りするようになった。
今日もそうである。昼げを取る暇もなく審議の詳細について指示を仰ぎに来るのだ。
残念な話だが和州の令尹は、前任者がそのまま就いているだけなので、役には立たない。
呀峰はすべて自分が指示を出していたので、令尹についてはただの役職名として機能するだけの人間を就けておいたのだ。
現在も特に柴望に対して何をしてくるというわけでもないので、柴望としてもそのまま置くだけにしている。
細かいところを気にしていると、肝心なことができなくなるからだ。
州軍は、思いのほか短期間で押さえることができた。
和州州師の中にも、景麒にまたがった陽子の姿を見た者が大勢いたからだ。
また、空の関わった、柴望暗殺未遂事件でも、敵味方区別なく救命にあたった柴望の嘘偽りない姿が口伝えに伝わっていた。
これも柴望の人柄をよく表した事件だったと言えよう。
この最初の事件で、州師の中の不穏分子はほぼいなくなったとみて良かった。
和州もひどい奴ばかりではないのだ。いや、州侯がひどい奴だったからこそ、反動も大きいのかもしれない。
とにかく、忙しくはあったが平和な日々が戻ってきつつあった。
柴望は官吏との謁見が終わると、大急ぎで昼餉を取り、午後の執務に入る。
夕餉少し前に、執務を切り上げ自分の休憩に入る。空は、この時間に良く呼ばれるようになっていた。
ほんの数分挨拶を交わすだけの日も多いが、今日は柴望から話したいことがあった。
入り口とは反対側の窓を少し開けて、柴望はささやくように呼び掛ける。
「空よ、いるか?」
するりと、影が音もなく舞い降りる。今日の空は外にいたようだ。
執務室の土壁に寄り添うように片膝をつき頭を垂れていた。
「おお、そこにいたか!」
「はい」
チチチチ……小さな鳥が、柴望の声に驚き、近くの枝から向こうの木の枝まで羽ばたいていってしまった。
「鳥にはかわいそうなことをしたかな? 空がいても飛び去ったりはしないのだろう?」
「いえ、時と場合によるかと存じます」
空は、遠慮深いわけではない。そう言った気遣いは苦手な部類だ。むしろ状況を冷静に分析しているのだが、
柴望にはまだ空のそのあたりの心情が理解できてはいない。遠慮深い奴だと思っている。
「ふむ。それはそうと、雲海の上もだいぶ暑くなったが、庭のほうはどうかな?」
「はい、新しい枝がだいぶ伸びましたので、切りそろえました」
これから本格的な夏へ向かう太陽が、そのじりっとした暑さを若葉の間から突き刺そうとしている。
「うむ。花が無いのが少しさみしい気もするが、今の慶の現状では、そういったことに金をかける余裕はないな」
空は黙って頭を垂れる。
「空よ、良く聞くが良い」
柴望が、少し言葉を改めて、空に正面からむく。空は、頭を上げずにしばらく待った。するりと風が二人の間を抜ける。
「もう少しで、雲海の下は雨が上がる。田の状態も良く、稲はすくすく育っているようだ。
順調にいけば八月には稲の花が咲くだろう。どうやら豊かな実りが期待できそうだ。
ひとつ、主上にお礼も兼ねて挨拶に参ろうと思うのだ。それで、何かよい手土産があればと思ってな」
「“手土産”でございますか?」
空は、怪訝そうに尋ねた。
「ふむ。謙譲の品となると、何かと面倒でな。
それに男連中には酒で十分だが、年頃の女性、しかも蓬莱の出身となると、何がどうなのかさっぱりわからん。
何か良い試案は無いかと思ってな」
「はあ」
答えて、空は少し困った。あまり得意な分野ではないからだ。
そもそも空には、何か貰って「うれしい」という感情が湧かない。
うれしいふりをすることはできる。また、情報を集め分析し、現状を把握して予想することはできる。
しかし、今回の場合、情報が少なすぎた。
空は、蓬莱の女子高生がもらって喜ぶ物について少し考えを巡らせた。
「女性だから、花も良いかと思ったのだが、あいにく和州の内殿には女性がいつくしむようなたぐいの花が無くてな」
空は、黙っていた。
「その時に、空を金波宮へ連れて行こうと思っているのだ」
空は、少し顔を上げる。自分のために忙しい時間を割いている柴望には、
期待にこたえる必要があるだろうと考えたからだ。
「少し、お尋ねしてもよろしいでしょうか?」
「おお、何でも言ってみなさい」
「主上は、どんな方なのでしょう?」
「さて、あちらにいる間にも、気さくに話をしていただいたが?」
「何という場所にお住まいだったか御存じではありませんか?」
「ああ、一度うかがったが、名前は忘れてしまった。首都からそう遠くないところにお住まいだったとか。
女性ばかりの通う学校にいらしたそうだ。そこまで通われるのに、機械仕掛けの箱にお乗りになったとか。
とにかく我々には想像もつかない世界のようだ」
空は、黙って聞いていた。それはそうだろうと思った。
こちらの世界は向こうにいては想像もつかないことばかりだからだ。
柴望は随分と長く話してくれた。しかし、ほとんど陽子がこちらに来てから苦労したという話だったのだ。
話が尽きたと思われた時、
「左様でございますか。だいたい想像がつきます。ありがとうございました」
と、空が頭を下げた。
「そうか、それは良かった。何か良い考えがうかんだかね?」
「いや、それは私には難しいです。しかし、今の主上はこちらで王として生きようとされている」
「うむ、そう決心されたようだ」
「それでは、和州復興の象徴となるような物がよろしいのでは?」
「うむ、良い考えだが、果して何が良いだろう?」
「稲の花ではいかがでしょう?」
空は、庭の手入れをしながら、柴望と州司徒の話を聞いていた。
あの晩のように狼藉者が突然入ってきた時に対処できるように、いつも柴望の執務室には気をつける必要があったからだ。
何しろ尋ねてくる者は皆仙なので、空にもだいたいの話の内容はわかるのである。
「稲の花か?」
「はい。さきほど侯が女性には花が良いのではとおっしゃっていたので。
また、今年は和州では米の豊作が見込まれるというお話をしていただきましたので」
そう言って、空は跪礼した。
「うむ、稲の花。確かに悪くはないが、主上は蓬莱で見飽きているのではないだろうか?」
「かもしれませんが、もしかしたら、一度も見たことが無いかもしれません」
「そんなことがあるのか?」
「はい、蓬莱では、たとえ米の飯を食していて、その米がどのように育ち実っていくかを知識としては知っていても、
その稲の花を一度も見たことのない者も沢山おりますので」
「ふうむ」
空の話を聞いた柴望は逆に考え込んでしまった。しかししばらくして、何か天帝にもお考えがあるのだろう、
などとつぶやき、難しい顔をするのをやめていた。
「わかった。空よ、そなたの意見を聞いてよかった。では、おおよそ一月後、
急に出発するかもしれないので支度をしておくように」
「かしこまりました」
暑い風がまた二人の間を通りすぎた。
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