練習試合





 さて、本日は陽子がお忍びで出かける日である。その護衛として禁軍から一両の兵卒が供につく。 もちろん、お忍びでなければたった一両の兵卒で護衛にあたるなどと言うことは無く、 兵とは別に女官や書記官など多くの者が動くことになるのだから、この程度では十分お忍びだ。 しかも、陽子は兵卒と同じいでたちで出かけ、誰が誰だかわからないように外に出て行くようであった。 さらに、この外出をてこにして、秘密裏に大がかりな禁軍演習が行われることになっている。 それで、禁軍が普段使っている演習場は、ほぼ空になるようだ。 桓たいはその中の一つを借り受けていた。 それは凌雲山の中腹にあり、雲海のずっと下ではあるが、 周りからは簡単に見えないような窪地になっているところにあった。 そこは、さほど広くはない。中央にちょうど百歩四方ほどの平らな所があり、 さらりとした土で覆われている。その土はよく固められていて、素手でも得物を持っても、 一対一の試合なら十分な広さと踏みごたえがあった。 その周りは手入れのされていない、自然のままの林になっており、 小さな庵が一つ、休憩所に当たるのだろう、東端に建てられていた。

 空は、遠甫に伴って雲海の上から下へ降りてきた。 途中妙な階段を下りたと思ったら、雲海はすでにはるか頭上にあったのを、空は非常に不思議に感じていた。

 和州にいたころは、空は雲海の上にいる者は簡単に下へ降りることはできないと思っていた。 今回は遠甫の付き人という形に収まっているので何の不便もなくどこの扉も簡単に通してもらえたのだろう。

 浩瀚と桓たいは演習場のさらに下、兵舎のある方から登ってきた。 遠甫の話によれば、今日の禁軍は外に出ている者が多いらしい。 もちろん空には、禁軍すべての気配を読む等と言うことはできなかった。 とりあえず彼女が感じることができたのは、 今この小さな演習場の近くには、自分たち四名の他には人間は誰もいないと言うことであった。

 空は少し緊張していた。
 およそ、練習試合と言う形で人と立ち合うのは、今までの人生では無かったからだ。 常世に流されてきてからはもちろん、蓬莱でも、ターゲットの命を絶つように命を受けることはあっても、 試合を行えという指示はなかった。
 本当の実力は家族にも見せない。
 スナイパーとしては当然のことだ。 むしろ、戦闘等とは無縁の人間であると周りの人間に思わせておくことの方が重要だった。
 空の育った渡部家では、殺しとは集団で行うテロ行為ではなく、 あくまでも個人で依頼を請け負い、請け負った者が自分自身で始末をつけるしきたりであった。

 空は、禁軍の左将軍という肩書を持つ桓たいと言う男は、 軽い調子で気さくな雰囲気を持っているが、その身体の運びには隙が無いことを出会ってすぐに理解していた。 さらに、完全ではないが自分の気配を読まれている。 空にとっては今まで出会った人間の中で、最も油断のならない相手といえる人物であった。
 休憩所と思われる庵には浩瀚と遠甫が座っている。 その前には御座が敷いてあり、演習用に使用する固い木でできた武器が長い物や短い物、 一種類につき二ふりずつ何種類か置いてあった。
 浩瀚が、
「使いやすい物を取りなさい」
と、武器を指す。桓たいは、自分の背よりも少し長い棒を取って、その場で二三回振ってみる。
「ほう、さすがに王宮は練習用の物でもよくできていますね。こいつは重さと言い固さと言い申し分ないな」
そう言った。浩瀚は空にも同じようにすすめる。
「あなたも武器を選んで下さい」
空は軽く会釈をすると、細身で片刃に削ってある木刀を取る。 するりと手になじむ感じがした。確かに、左将軍の言うように良い得物だと思った。 遠甫に向かって空は一礼をする。穏やかな笑みを浮かべて彼はゆっくりと肯いた。

   二人の間は距離にして五、六丈ほど。蓬莱風に言えば十メートル。 相手の能力がお互いに解らないのであるから、間合いは十分に取った方が普通だったら良いはずである。
「二人とも宜しいですか?」
「はい」
桓たいが軽く片手をあげて、浩瀚に向かって返事をした。空は黙って一礼する。

「空?」
桓たいは笑顔で問いかける。空は、片膝を折り跪礼の型を取って、桓たいに向かって改めて軽く頭を下げた。
「始まりの合図だが、俺の棒先にテントウ虫が止まっているのが見えるか?」
確かに、小さく丸く、黒い体に赤い点が二つ。蓬莱でもよく見かけたテントウ虫が付いている。
 空は、もう戦いは始まっていると思った。こちらの視力を試しているのだ。 自分が見えると言えば、この距離でこの虫を見分けるだけの視力があると、相手に悟られる。空は一瞬迷った。
「左将軍に申し上げます」
「空、そんなかしこまるな。俺が困る」
桓たいは白い歯を見せて陽気に笑う。
空は不思議そうな顔をして見せた。 軍の中では最も位の高い役職と思われる桓たいに対して、当然の話し方だと思っていると、 思わせたかったからだ。空は、自然な感じを出しつつ、桓たいの出方を探っている。 質問に答える代りに、相手の気をそらしたのだ。
「桓たい、空は当然の礼を取っているのだ。困らずに答えてやればよかろう」
冢宰は笑って二人を見ている。
「はい、そんなもんですかね。なんだか空は初めて会った気がしないんですよ。 では、空?何か言いたいことがあるなら言いなさい」
「はい、もし虫が見えたらいかがなされるおつもりですか?」
「おお、それか。実は俺はお主にとても自然な気を感じるんだ。 人くさく無いというか、周りの景色に溶けるような、不思議な気配を持っている。 だから、試合の始まりをこの虫に決めてもらおうと思ってな」
「虫に、でございますか」
「ああ」
遠甫と浩瀚は、この話を聞いて視線を交わしていた。 浩瀚は、少なくても桓たいは本気だと感じていた。 空を見て手合わせしたいと言い出したのは桓たいだった事を思い出した。
「では、もう少し手合いの距離を短くしてもよろしいでしょうか?」
「もちろんだ、見えるところまで来てくれ」
「かしこまりました」
空は、何歩か進み、先ほどの距離を半分ほどに縮めた。 これなら、お互いの得物を伸ばせば、触れ合うことができるだろう。 純然たる試合をするのであれば、面白いかもしれない。 桓たいは、棒に乗ったテントウ虫を刺激しないようにほとんどその棒を動かさずに、 自分の両足を開き空に向かって構えた。 空も、静かに上段に得物を構え、いかにもテントウ虫を見るためだという風に、正面から少し構えをずらした。
 テントウ虫は、その足を忙しく動かし、棒の先へと移動している。 こういった虫によくある習性で、一番高いところに昇りつめてから羽を開いて飛んでいくことがあるのだが、 その通りになるように、虫は一心に棒先を目指しているように見えた。 あと少しでてっぺんだというところで、何の気まぐれかテントウ虫が飛んだ。
 桓たいは、そのまま勢いよく前を突こうと考えていたが、それはすぐに改めた。 虫が飛んだ瞬間、空も飛んでいたからだ。 構え直して正面から来る空の木刀を両手で防ぐことがやっとだった。 考えるより早く桓たいの体が反応した、そんな感じだった。 空の殺気は無く、あまりにも速いと桓たいは思った。 空は、左将軍は自分の一撃を受けるだろうと予測していた。 カツン、と固い木がお互いにぶつかる音がした。 その反動を利用して、ぶつかったところを支点に空は背面宙返りをやってのけた。 しかも半ひねりを入れ、降りた時には桓たいのいる方向に正面を向くようにしたのだ。 桓たいは、木刀と棒のぶつかりを自分の体で十分感じた。 それほど破壊力のある衝撃では無いと思った。 そのまま、振り返りざまに空が下りてくる所をなぎ払った。 空が普通に降りてくれば、腹を力いっぱい打つことになっただろう。 空中でその棒の横風を感じ、空はすでにひねりきっていた身体を思い切り丸め、 紙一重で桓たいの棒をやり過ごすかに見えた。 そのまま空を切るかと思われた桓たいの棒を、 空は持っていた木刀で回転を止めるのではなくさらに増す方向に力いっぱい払いのけた。 ガシン、また固い木と木がぶつかり合う音がした。 今度は重たい音だった。 桓たいも相手の力を感じる。 ほんの少し、彼の気がそれた。 空は、着地の瞬間に持っていた木刀を逆手に持ちかえ左手を支えにして一気に桓たいに突き出す。 桓たいは空から見ると左の方向、つまり空の聞き手とは反対の方向へ大きくに飛んで棒を構えなおした。 空は、あんなに重い突きを見せたとは思えないほど軽く方向を変え、 ほとんど止まらずに桓たいの跳んだ方向へさらに進む。 懐に飛び込めば棒を武器に選んだ桓たいが不利になるのだ。 桓たいは横からもっと後ろへ跳び、さらに間合いを広げる努力をした。 しかし、空は速い。すぐに桓たいの懐を狙う。 ここまで、ほんの一瞬だった。 遠甫と浩瀚は、二人とも目を丸くしたが、それをすぐにいつもの表情に隠した。 桓たいは、棒を選んだことは間違いだと判断し、空に向かって思い切り投げつけた。 やり投げのように相手に突き刺さるように投げたのではなく、 横向きに投げその棒の分だけ空からの攻撃をかわしたのだ。 空は、得物を投げた桓たいを見て逆に間合いを詰めることをやめた。 多分腕力では桓たいの方が上だろうと感じていたからだ。 先ほどまでのように間合いをつめれば、真剣であればともかく、 木刀なのだから相手に奪われる危険も出てくる。 桓たいも、同じように考えていた。 力技で行かない限り、空の速さには自分は負けると感じていたのだ。 桓たいは久しぶりに戦闘で焦りを覚えていた。 額に汗が浮く。 空は、その様子を見て、艶然と笑って見せた。桓たいもぎょっとするほどのつややかさだった。 その一瞬をついて、空は低い姿勢から桓たいの足元へ向かって走りこみ木刀をなぎ払う。 足を狙ったのだ。今度は桓たいが飛んで大きく後ろへ引いた。 空は向きを変えもう一度進もうと思った時、激しく嫌な予感がして逆に飛んだ。 鮮やかな跳躍力を見せて、遠甫と浩瀚が見ている庵の屋根まで跳んだのだ。 それを見て、桓たいは薄く笑った。

「もう良いじゃろう?」
遠甫がそう言った。
「左様でございますね。ふたりともこちらに戻って得物を置きなさい」
浩瀚も、吸い込んだままの息をやっと吐き出せると言うように、ふうと一息ついてからそう切り出した。
「試合は引き分けと言うことでどうじゃな?」
戻ってきた二人を見て遠甫が穏やかに問いかける。

「いや、面目ない。俺の負けと言うところでしょう」
桓たいは、もう気さくな左将軍に完全に戻っていた。空は、さっきの嫌な感じを不思議に思いながらも、
「いえ、戦闘放棄いたしました。私の負けでございます」
そう言って頭を下げた。
「空、なぜ、逃げたのですか?」
浩瀚は、多少きびしい口調で尋ねた。
「はい、今までに感じたことのないような非常に悪い予感がいたしましたので」
空は、正直に答える。桓たいと浩瀚は顔を見合わせ少し笑った。
「空よ、良くやった。お前の戦闘能力、存分に見せてもらったよ。 心配せずとも好い。私の丈身にふさわしい能力じゃよ」
遠甫は穏やかにそう告げた。空は黙って頭を下げる。
「いや、良い物を見せていただいました。老師、空の身分はどういたしましょうか?」
「ああ、そうじゃな。浩瀚さえ良ければ、庭師としておいてくれるかのう?  戸籍やそのほかの面倒なことはすぐでは無い方が却って良いような気がするがの」
「左様でございますね。では、空?」
空は跪礼して頭を下げる。
「そなた、これからは老師に個人的に雇われた庭師と言うことで生活すると良いでしょう。 何かあったら老師と相談するように」
「かしこまりました」
そう言って、空はさらに頭を低くした。

 浩瀚は兵舎に向かう桓たいに付きあって、凌雲山の林の中を歩いていた。 周りにはもちろん行きかう人などいない。
「桓たい、空はどうだった?」
浩瀚は面白そうに尋ねる。
「いや、強いと言うか、怖いです」
「ほう、お前でも怖い物があるのか?」
「いや、試合と言うなら負ける気はしません。 しかし、命のやり取りをするとなると、 あんな者をそこいらへんに歩かせておいてはまずいですよ。 空は俺の心の臓を常に狙ってきていましたから」
「そうなのか?」
「それはよくわかりました。試合と言うよりは、いかに相手の命を消すか、という感じがしましたね」
「それで?」
「俺は熊になるところでした」
「やはりそうか」
「はい、あのままでは負けると思いましたよ」
「空はそれも察したらしいね」
「のようです。本当に良かった、浩瀚様が冢宰になってからで。 あんな者が靖共や呀峰の下で働いていたらと思うとぞっとしますよ」
「しかし、呀峰の元にいたのだろう?」
「あ、そうでした。ひょっとして空があんな風だと知らなかったんですかね」
「だろうな」
「老師に常世のことをよーく教えていただかないと」
「ふむ、まずはそれが一番だろう」
「浩瀚様、何か事が起きた時は俺が空の面倒を見ますよ。だから空を俺に付けてください」
「まあ、味方にすれば頼もしいな」
「柴望様の窮地を救ったと言うのも頷けます」
「ふむ」

 蝉は鳴き、夏の日差しが天頂に差し掛かる少し前、二人は兵舎に行きついた。 なんだか、暑さがきつい。風も出てきた。白い雲がちぎれて彼方へ跳んでいく様子が見られる。 このままでは午後から雷雨になるだろうと、二人とも感じていた。