浩瀚と空





 浩瀚は、改めて「渡部 空」(わたなべ そら)と呼ばれた下男の服をまとう人物を見た。 何の敵意も感じられない、普通の人間のように思う。 海客とはもっと不安を抱えているのが普通なのだが、なぜこのように落ち着いていられるのか不思議だった。

 陽子は、常世に来てすぐ景麒と離れ離れになってしまい仕方なかったのだが、 何が何だか分からないままに、剣をふるい自分の命を守り、家に帰りたいと強く願った。 それでも陽子は王だ。水禺刀や碧双珠もあった。あの蒼猿でさえも、話し相手にはなったのだ。
 鈴に至っては、旅芸人の一座に引き取られ、運よく飛仙に拾われ、 昇仙させてもらった上に衣食住と働き口を与えられていたのだから、 不平不満はあっても、なんとか生きてくることができたのだ。 そうでなければ、こちらに流されてそれほど経たないうちに命が無くなっていただろう。 世界が変わると言うのはそれほど単純なことではない。

「老師、彼に直接話を聞いてもよろしいですか?」
浩瀚は、尋ねた。遠甫は、なぜか少し笑いながら、
「もちろんじゃとも」
と許可していた。

「空(そら)と呼んでも差し支えないかね?」
「はい、そうお呼びください。それが私の蓬莱名でございます」
そう言って、空は再び丁寧に跪礼した。
「空とやら、年はいくつになった?」
空は、少し考えた。どうやら常世は日本と同じ暦を使っているようだ。それならば、
「こちらに来てから一年半ほどたっていますので、二十四歳かと存じます」
そこにいた三人は驚いた。もっとずっと若いと思っていたからだ。
「なるほど、それでは蓬莱ではどんな仕事をしていたのかね」
浩瀚は重ねて質問する。
「依頼主から受けた要求を満たすような事をしておりました」
「具体的には?」
「隠されている情報の収集、指定された人物の社会的抹消、もしくは生物学的抹消も行いました」
「蓬莱では、そう言った生業は罪にならんのかね?」
そう聞かれて、空は初めてにっこり笑った。
「蓬莱では、どんなことを起こしても、それが訴えられなければ罪に問われることはありません」
そう言うと、頭を深く下げた。
「それは、証拠が無ければ、たとえ殺人を犯しても罪には問われないと言うことかね?」
「はい、それともう一つ、当事者、もしくはその関係者の方が当局に訴えることがなければ、 何をしても罪に問うことはできません」
浩瀚は短いため息をつくと、軽く頭を振った。
「依頼を受ければ、善悪を考えずに遂行するのかね?」
「はい、善悪と言う物は移ろいやすいものであると、渡部家では教えられてまいりましたので」
「うむ」
浩瀚は考え込んでしまった。

 空と言う海客が、呀峰の所にいたとすると、 呀峰はどうしてこの男を利用して我々の抹殺を考えなかったのだろうか?

「空、元の和州侯に仕えていたと聞いているがそれは事実かね?」
「はい」
「では、私がどういう人間か呀峰から聞いたことがあるかね?」
「麦州の州侯が浩瀚と言う方だと伺ったことがございます」
それをきいて、浩瀚は桓たいと思わず目を合わせていた。
「一年半前に、こちらに流れ着いたと言っていたね」
「たぶん、それくらいかと思われます」
そう確認して、浩瀚は今度は遠甫に向い、
「老師、この者は主上が蓬莱からお渡りになった時の蝕でこちらに流されたのではないでしょうか?」
「うむ、可能性はあるの。あの当時蝕が起こったのは陽子が渡ってきた蝕だけであったように記憶しているよ」
「やはり」
「浩瀚様?」
それまで黙っていた桓たいが、浩瀚のつぶやいた言葉に反応していた。
「うむ、何か主上とも縁があるのかもしれんな。そうだ、桓たい。お前、空とここで手合わせしてみないか?」
「はは、浩瀚様。私だってしてみたいですよ? でも、今夜は静かにしていた方が良かったんじゃありませんか?」
「お、そうだったな。老師、失礼いたしました」
「ふむ、わしも実際見てみたいところじゃが、空に聞いた話だと、 和州の兵を十五六人、あっという間に戦闘不能にしたようじゃからな」
「空、もう一度その様子をかいつまんで話してくれないか。 特に『短い時間で』というところにしぼって話してもらいたいのだが」
浩瀚は空に対し、一つ要求を出してみた。
「はい、少々お待ちください」
そう答え、空は要求に沿うように考えをまとめた。
「兵は三つにわかれて襲ってきました。一つは四人ほどで館に火を付け、 もう一つは出口を三人ほどで押さえ、本体は八人で正面の園庭より屋敷に入ろうとしました。 私は本体の後ろから、射手を二人葬り、残りの六人は後ろから仕留めました。 次に火をかけた者たちを屋根伝いに移動し射手を倒し、他の三名の動きを封じ、 同じく屋根伝いに出口へ向かい、残り三名の動きも止めました。 そこまで、人の脈拍数にしておよそ八十回ほどだと記憶しています」
桓たいも浩瀚も目を丸くしていた。それは、蓬莱時間にして一分程度。 相手が州師だったことを思うとほんの一瞬でと言っても間違いではないだろう。
「そなた、腕に自信があるのか?」
浩瀚は、できるだけ顔に笑みを浮かべながら問いかけた。空は少し思案して、
「いえ、相手は私の存在を全く気付いていなかったようですから、それほど難しいことではありませんでした」
「ふむ」
浩瀚は、また考え、左将軍の方を向いた。
「桓たい、お前ならどうする?」
「え、私ですか? そうだなあ、柴望様はお助けできるとしても、火事を消すのは難しいですね」
「ほう、正直な奴だな」
「浩瀚様に嘘をつくと後が怖いですからね」
「なんだと?」
くっくという遠甫の笑い声がする。三人の中で空の気配がまた薄れた。
「そういえば、主上がもうすぐお忍びで御友人の墓参りをされるそうだな」
「ああ、その件ですか。はい、確か明後日だったように思います」
「禁軍はどうするのだね」
「ええ、お忍びと言っても主たる方々には連絡済みですし、 禁軍も主上に直接ついていくものと、 それとは別に大がかりな演習を兼ねて堯天の各所に配備しますので危険は無いと思いますが」
「桓たいも出るのか?」
「いえ、私は留守番です。何かあれば出ますけれども」
「では、午前中ぐらいは暇だな」
「そうですね」
「一番兵の数が少なくなる時間帯に、どこか演習場を貸し切りにできないか?」
「あ、できますねきっと」
浩瀚は遠甫に向き直り、
「お聞きの通りです。明後日午前中空をお借りできないでしょうか?  桓たいと手合わせさせてみたいのですが」
「ふむ、わしもお邪魔できるかね?」
「もちろんです」
「あとは、空がどうするかじゃが……。空よ」
遠甫は相変わらず、部屋の入り口で跪礼している空に問いかける。
「そなた、ここにいる桓たいと一度手合わせしてほしいのじゃがどうじゃ?」
「一定の制約のもとで、体術や剣術の試合をせよという御命令ですか?」
「ああ、それに近いものじゃよ。浩瀚、そうじゃな?」
「もちろんです。ただ、得物は自由に。 相手を殺さず戦闘不能にすると言うことでいかがでしょうか、老師?」
「ふむ、それでは制約はあってないようなもんじゃな。 ようするに降参するまでやると言うことじゃよ。空、やってみるかね?」
空は、遠甫にむかって軽く会釈をすると、その顔を浩瀚の方へ向けた。
「目的は、私の戦闘能力を測ると言うことでしょうか?」
「はっきり言えばそういうことになるな」
「わかりました。やらせていただきます」
そう言って、空は深く頭を下げた。
「では、今夜はこのあたりでお開きにしようかの。 冢宰も、左将軍もかたじけない。遅くにすまなかったのう」
「いえ、興味深い『者』を見せていただき大変面白う御座いました」
「私もです、太師」
二人は、席を立つと丁寧に拱手して、空が跪礼したままでいる外とは反対の方向にある出口へ向かった。
「空、出口へ回り挨拶をしなさい」
遠甫に言われて、軽く頭を下げると、空はそのままの姿勢で飛び上がる。 音もなく太師邸の屋根に上がると、屋根伝いに跳躍した。歩数にすれば三歩だ。 浩瀚と桓たいが出口にたどり着くまでに、外で片膝をついて跪礼の姿勢をとった。
 笑いながら出てきた三人のうち二人、浩瀚と桓たいは今度こそ肝をつぶした。 そこに空がいたからだ。目を丸くしていた桓たいは、
「面白い!」
と叫んだ。
「おい」
小声で浩瀚がたしなめる。
「あ、失礼しました、静かに、静かに……。しかしね、浩瀚様。俺は楽しみですよ」
「私もだ。空よ、明後日まで休養すると良い。面白い試合を見せてくれ」
空は、黙って頭を下げた。