「一月ほど前じゃったかのう、柴望から文を貰ったんじゃ」
そう言って、遠甫は話しだした。浩瀚と桓たいは、くつろいだ様子で花茶をすする。
「文には、わしに預けたい人物がおる、と言うことしか書いておらなんだ」
「と言うことは、柴望様の今回の突然の金波宮訪問は、
その空(そら)と言う海客を老師に届けるためのものだったと言うことでしょうか?」
桓たいは、少し驚いた風に尋ねた。
「いや、そうかもしれん。表向きは和州の実情を陽子に報告すると言うことだったのだろう。
そちらの方はうまくできたのではないかな。陽子も安心したようじゃったしのう」
「はい、今日は午後の執務も捗ったようでございます」
「ほ、さすが冢宰。『主上』のことはよく調べておるの」
揶揄するような、遠甫の言い方に、浩瀚はにやりとすると、
「それこそが私の仕事でございますから」
と涼しい顔をして答えていた。
「ふむ、あいかわらずかわいくない弟子じゃの」
そう言った遠甫を見て、桓たいは笑い出し、浩瀚はそれは悪うございましたと、受け流した。
穏やかで平和な空気が太師邸に流れ出す。
空はその部屋と外との境で、跪礼したまま三人の話を聞いていた。
今まで、この世界に来てから初めて聞いた種類の会話だった。
信頼し合っている者同士が軽口をたたく、そんな雰囲気を感じ取った。
昼間のここでの和やかな会食も、空の記憶に残る中で同じような場面を探すとしたら、
遠い昔、修行の一環として通っていた「学校」の中で見かけたくらいであった。
蓬莱で生きていた時を含めても、空とは縁のなかったものだ。
「わしも、あまりに短い文であったことに少々疑問をもっての、
ほれ、桓たいが柴望に丈身を世話したじゃろう?
あの中に禁門の門番と知り合いがいたようでな。そちらから、何か知らないか聞いてみたんじゃ」
「そうだったんですか? それは気がつかなかったな」
桓たいが頭を掻いた。
「うむ、その兵の両親が昔から和州と取引のある商いを営んでおっての、
梅雨のころその両親に請われて用心棒代わりに和州まで行ってきたそうなんじゃよ」
「何かございましたか、老師(せんせい)」
浩瀚も今は姿勢を正し、遠甫の話に聞き入っている。
「その知り合いの丈身が怪我をしていると聞いての、見舞ったそうじゃ」
「へ、本当ですか! あいつらは粒よりの武者たちだったんだけどなあ」
桓たいはびっくりした。
「だけではなく、なかなか気づかいもできる者たちだったと聞いているぞ」
浩瀚が薄く笑って桓たいの方を見た。
「え? いや、これはまいったな。柴望様はお付きの者等おけないと思ったんで、
人選には気を配りましたけどね」
遠甫は二人の顔を、満足そうに見ていた。
「その気遣いは助かったようじゃよ。
まあ、それはともかく、その門番はお前の様な使い手がなぜ怪我をしたんだと訊ねたそうじゃ」
「そりゃ最もだ」
桓たいは軽く相槌を打った。
「それで、柴望が刺客に襲われたことがその門番の耳に入ったようじゃの」
「げ?!」
どうやら桓たいはそのことは知らなかったようだ。
蘭桂が音を立てないようにと気を付けてはいたのだが、思わず椅子を押しのけ立ちあがってしまった。
「おい」
浩瀚が小さな声で桓たいをたしなめる。
「あ、失礼しました。でもそれは俺は聞いていないぞ」
「いや、その丈身のせいではないかもしれんよ。
柴望が外部に漏らさぬように口止めをしたかもしれんからのう」
「そうだな、もうお前の管轄ではなくなったからな。
むしろ柴望に何か考えがあったのかもしれないぞ」
「はあ、まあそう言えばそうですね」
桓たいは心落ち着けて、また二人の中に混じる。
「その、襲撃を食い止めたのがそこにいる空だったようじゃ」
遠甫の言葉を聞くなり、浩瀚と桓たいは庭の方を向いた。
相変わらず、同じ姿勢で跪礼している空がいた。
二人とも、思い返してみれば空の存在を忘れかけていた。
空の紹介を遠甫から受けたばかりだったにもかかわらず、
二人の頭の中から、空の印象が消えようとしていたのだ。
桓たいの方は、空の動きに興味を覚えていたにもかかわらず、
であるから、衝撃は少なくなかった。
「老師(せんせい)、ではその腕を見込んで、そこにいる海客を丈身に雇われたのですか?」
浩瀚が、信じられないと言う顔をしていた。
「それほど驚くことでもないかと思うがのう」
遠甫は、笑い浩瀚の方を向く。
「それに、わしは空の兵士としての腕がどのくらいか見た訳ではないからの」
そう平然として説明する。
「私は老師の人を見る目を信じていないわけではありません。
しかし、和州にいた者をそのまま雇うのは、いくら柴望の薦めでも早計では?」
「ふむ、実はな、腕を見込んで丈身に雇ったわけではないのじゃ」
遠甫は真顔になって空の方を向いた。
「柴望は、この老いぼれに空を助けてほしいと言ってきたのじゃよ」
浩瀚と桓たいは、そう言われてはっとする。それから改めて空の方を向いた。
空は相変わらず、先ほどから寸分違わず同じ場所で同じ姿勢を保っていた。
気配は夏の夜に紛れ込んでいる。
男二人は、また、遠甫に向き直る。遠甫も二人の方へ向き直り、さらに説明を続けた。
「空は、蓬莱では心の病があると言われていたそうじゃ」
「心の病、ですか?」
桓たいは、なんだそりゃ、という表情を隠せない。
「ほっほ、空の説明によれば、感情が無いそうなのじゃよ」
「それはまた、珍しい病ですね」
浩瀚が、こちらも信じられないと言う表情である。
「ふむ、それで常世のことをもっと知りたいと言う気持ちはあるそうじゃ」
「そりゃ、海客はみんなそうでしょう」
桓たいが言うと、
「いや、皆そこまで余裕は無いだろう。帰りたい、と言うのが普通ではないか?」
そう浩瀚が続ける。
「ああ、そうか」
「ふむ、鈴なぞも何とかして帰りたいとずっと思っていたようじゃが、
それはすぐにあきらめたようじゃな。
その後は、言葉の不自由さを補うために、飛仙の下女になっていたそうじゃよ」
「そうでしょうね。鈴はむしろ運の良い方かと存じます。
何の知識も技術も持たない海客や山客は、常世で生きるのは難しいでしょう」
そう浩瀚が付け足した。
「空は、なぜそんな望みを持ったのですかね」
桓たいは不思議そうにつぶやく。
「ふむ、そこに本人がおるから尋ねれば早いと思うが、
さきほどの浩瀚の言葉を借りれば、余裕があるからではないかの」
「余裕……ですか?」
「帰りたい、っていうのはどうなんですかね?」
そう言いながら、桓たいは空の方を見た。
そして、自らかの者の顔を見ようとしたのは、これが初めてであることに自分で驚く。
「帰りたい、すなわち、広い世界に自分しかいない、さびしい、不安、ということじゃな。
桓たい、それを人は感情と呼ぶのではないかの?」
「あ」
桓たいは絶句してしまった。逆に浩瀚は複雑な顔をする。
――仮に柴望への狼藉が本当だったとして、
それを未然に防ぐだけの能力がこの者にあったとしよう。
そうすると、普通は感情があるからこそ抑えることもできる衝動を、
なんの制御もなしに行使できるというわけか?――
「老師、それは実は恐ろしいことではないのですか?」
「ほう、浩瀚は気付いたかの」
「へ、何のことですか?」
桓たいは、二人の顔を交互に見た。
「桓たい、お前私の命令ならば何でもできるか?」
「そりゃもう、浩瀚様の言うことであれば誰だって聞くでしょ」
「ふふ、では主上の御命を頂戴して来い、といったら?」
「はあ? 冗談も大概にしてくださいよ。
昨年末ならともかく、今はもう主上がどんな方だかわかってしまいましたからね」
「ふむ、では、昨年末だったらできたか?」
「はあ、まあ、それはなんとも」
「で、あろう? お前なら今の主上を直接見て考えて判断しただろう。
たとえ実行しようとしたとしても、ためらいや躊躇があるだろうな」
「まあ、そうでしょうね。捕まえてくるとか、動けなくするとかではなくて、
御命を頂戴するということですからねって、あ、そうか」
桓たいは、自分でそう言って急に得心が行ったようだ。
「うむ、お主らはやはりようわかっておるの。そういうことじゃよ。
柴望はよくぞ命が長らえたものじゃ。
もし、空の話が本当なら、
空は一人で一度にではないにしろ十五六人からの兵を相手にしたのだからのう」
「それで、勝ったのですか?」
「いや、桓たい。この場合勝った負けたはあまり意味が無い。
柴望は死ななかったのだからな」
浩瀚はそう言って目をつむった。
自分たちは、やはり危ない橋の上を渡らされているのだと言うことを再確認したからだ。
「なんの感慨もなく人を切れると言うことですね?」
桓たいは遠甫と浩瀚の顔をかわるがわる見ながらそう言った。
「たぶん、そういうことなんじゃよ。だから、柴望はわしに預けようとしたのじゃろうのう。
いつもの柴望ならうまくやったかもしれないが、今は和州侯として忙しく
、空に色々教えることがかなわんのじゃろう。それで、こちらへ連れてきたのじゃろうな」
遠甫の話は、どうやらこれで終いのようであった。
手ずから花茶を入れ直し、浩瀚と桓たいの茶器に注いでいた。
|