柴望と空





 長かった冬が終わり、木々の芽が膨らむ。 その根元からは、草の芽がほんの少し頭の先を出していた。 前の州侯である呀峰には、庭を愛でる趣味はなかったらしく、花の数は少なかったが、 白梅、紅梅が何本かあり、手入れが怠たっていたこの庭でも、優しく開いていたのである。 どこからか小鳥も飛んできて、蜜のあるめしべの集まった花の中心をついばむ姿が見られる。
 春は、ここ和州の内殿にも訪れていたのだ。

あの、柴望や彼の丈身たちが襲われたあと、 空は柴望が執務以外の時間を過ごす内殿の庭を整える仕事をしていた。 今日も箒で落ち葉を掃き寄せ、建物の裏手に回り、腐葉土用の穴にその葉を入れる。 必要があれば、たまっている腐葉土の上下を換え、うまく発酵したものから庭に撒いていく。 まだ、朝夕は冷える。緑色をしているかどうかも解らない、 蘭や牡丹のごく小さな芽に寒さよけの覆いをかける。 落ちている小枝や柴は、賄いの炊きつけ用にと運んでおく。 執務室正面の広い白洲は、別の下男が掃除をしているので、 空の役目はもっぱら目立たない、庭の奥のほうの仕事であった。

 柴望が公の執務から帰って休息を取るのは夕刻。 日もとっくに暮れ、あたりが暗くなってからだ。 まだ、不穏な者がすっかりいなくなったわけではなかったが、 柴望も明郭がどのようになっているのか現実を知ることを優先しようと、 多少の危険は覚悟して執務に臨んでいた。 手始めに柴望は、丈身たちに別の役割を与えた。 五人いた丈身たちもすっかり傷が治り、 常駐するものと雲海の下に降りて街中の様子を見聞きしてくるものと、 柴望のために仕事を分担するようになったのだ。

 表向きには平和な日常が戻ってきたある日、 夕餉の後、柴望は丈身たちに自分の護衛を一人だけにして、休息を与えるように手配した。 空と話をするためだ。州侯としての仕事は多岐にわたり、 あまり余分なことに時間を割いていることはできなかったが、空については柴望も気がかりであったのだ。

「空、いるか?」
柴望は、表で番をしている丈身には聞こえないように、開いている窓から外に向かって声をかけてみた。
「こちらに」
静かな声がする。女にしては空の声は低かった。しかし、野太い男の声ではない。あまり性別を感じさせない声だった。
「あいかわらず、気配を消すのは一流だな」
「恐れ入ります」
驚いたことに、空は執務室の中にいたのだ。部屋の隅に、片膝をつき頭を垂れている。
 空は、夕刻に柴望が戻ってくると、それとなく周りに気を配るようになっていた。 たとえば、丈身が皆外に出るようなことがあれば、執務室の中に入り、 天井から様子をうかがうことにしていたのだ。何が起こるか分からない、空はそう思っていた。 この常世という場所は、特殊な技術で突然執務室の内部に狼藉者が送り込まれるようなことが 無いとは言えないと思っていたのだ。なにしろこの世界は、自分がいた日本では考えられないことが起きるのだから。 今日も、そんな事を考えている空にとっては何も特別なことではなかった。 柴望が自分の名を呼ぶので、音もなく床に着地しただけなのだが、柴望は十分驚いていた。
「今日は、空と少し話ができそうなので呼んでみたが、このような近くにいたとは。びっくりしたぞ」
「ありがとうございます。お忙しいようですね」
「誠にそうだな。そなたはどうだ? 最近は庭も整ってきて、 私がここに来てすぐのころに比べて、だいぶ見栄えがするようになってきたが」
「侯がお庭にも心を砕いてくださっているからでしょう」
「ああ、以前よりは人数を増やした」
空は、膝をついたまま軽く頭を下げる。

「空?」
「何でございますか?」
「世間話に近いかも知れんが、お前に尋ねたいことがある」
「左様でございましたか。いったいなんでございましょう?」
空は、柴望の表情を確認するため少し顔を上げる。
「ふむ、大したことではない。そなた、なぜ周りのものに男と思わせているのだ?」
その表情に揶揄する兆候は見られない。 柴望はどうやら本当に疑問に、もしくは空の身を案じて尋ねているらしい。 空も、男女の区別について柴望の深意はどこにあるのかを知りたいと思った。
「なにか、仕事に差し障りでもございましたか?」
感情の伴わない冷たい声が空の口から出る。
「いや、そんなことはない。むしろ力仕事でもほかの男たちと同様にこなしている」
柴望は、空の技量を正しく評価したかった。 和州内殿に元から務めている下男達にそれとなく尋ねてみたが、 空のことはまったく知らないか以前から働いていたという話しか聞くことができなかった。 それは、あの事件のすぐ後に聞いた空の話に出てきた、諜報活動を生業としていたということと結びつく。 これほど周りに違和感なく溶け込むことのできる人間はそういないだろう。しかも、空は海客なのだ。
「では、侯は私に女としての仕事もせよとおっしゃいますか?」
空に、そう言葉を返され、一瞬、柴望は何のことかわからなかった。 しかし、空が少し前まで呀峰の思い人として優遇されていたことに気づき、年甲斐も無く赤面してしまった。
「いや、夜伽は私には必要ない。いらぬ気を使わせてしまったな」
「いえ」
柴望は、あの美しかった「空玲」と名乗る愛妾が、 本当にこの女、いや少年といったほうが正しいように見えるのだが、 そうであったのか日を追うごとに確信できなくなっている自分を感じた。
「そうか、ではここでの生活に特に不自由はないのだな」
「はい」
空は、短く肯定し、
「それよりも、柴望様」
低い声をさらに低くするようにしてささやいた。
「なんだ?」
「お気をつけくださいませ。ときどき不審なものたちが内殿の周りをうろついておりますので」
「本当か? 気付かなかったが。懲りない連中だ」
柴望はにっこりと笑う。空は叩頭した。

 それから時々、ここ明郭にある州城の内殿入り口では、 あまり目つきのよろしくない州師や官吏たちが何人か 表に気を失って倒れているのを見かけることができた。 調べてみると、みな呀峰に近しい者たちであった。 柴望が州侯となったのを不満に思い、以前の者たち同様、反乱をたくらんだようである。 あの闇討ちに比べればたわいのない狼藉だったので、それほど大げさな事件にはならなかった。 もちろん、彼らを気絶させ内殿から放り出したのは空であった。 空の実践向きの身のこなしや剣術技能に、柴望はさらに驚かされたが、 彼はむしろそれらの手柄をほめても空が喜びも何もしないことが気になった。

 ある日の夕刻、柴望はまた空を呼んで話をしていた。
 そんな中で、空は柴望に打ち明けた。
「侯、私は蓬莱にいたときにも医者から言われておりました。 ふつう人を殺めたりすれば気持ちが動くそうですが、私はそういうことがほとんどございませんでした」
柴望は、感情が無いというよりはその感情を表面に表すのことができないように感じていた。 空も、蓬莱にいたときより常世に流されてきてからのほうが、 何か色々な現象に心が動かされることが増えたように思っていた。
「柴望様」
空は、淡々と告白する。
「私は一体何をすればよいのか自分ではわからないのでございます」
真顔で、空にそんなことを持ちかけられた柴望は考え込んでしまった。
――これだけの技量、知力の持ち主はそうどこにでもいるというものではない。 このまま、和州内殿の下男の中に埋もれてはもったいないような気がする。 しかし、自分はまだやらなければならないことが多くあり、 空の面倒を見たくてもなかなかできないであろう。――
 柴望は、空を金波宮に連れて行き太師に預けようと考えた。 金波宮なら主上も胎果であらせられるし、浩瀚様もいらっしゃる。 きっと空の役割を見出してくださるのではないかと思ったのだ。
「空よ。もしよければそなたを金波宮の太師にお預けしようと思う。 そこで、太師の身の回りのことなどお手伝いしながら、常世のことについて学んでみてはどうか?」
「太師……でございますか?」
聞いた事のない言葉だと、空は思った。
「おお、すまぬ。太師というのは役職名でな。簡単にいえば主上の指南役だ。 そなたも知っていると思うが、固継の閭胥、遠甫というお方だ」
空は、驚いた。そのような大事な方だったとは。 呀峰の尋問にも、気持ちの上では少しも引けを取らなかったあの人物が、 現在の国王の教育係だったのだ。 改めて、空は自分とこの常世と呼ばれる国々のことを考える必要があると感じた。 何か不可思議な絆があるような気もしていた。 黙っている空の顔を見て、柴望はその心情を察することができた。
「そうだな。浅からぬ縁があるのであろう」
彼は、静かに微笑んだ。