空玲から空へ





 その夜、内殿は上を下への大騒ぎとなった。内殿奥から出火して危うく建物が焼け落ちるところだったのだ。 濛々とした煙が立ち上り、一時は火の手も見えたのだが、幸いひどい事になる前に消し止めることができたようだ。
 狼藉者が火をつけたらしい。あろうことか、州侯を亡き者にしようとたくらんでいたらしいのだ。 その新しい和州侯が個人的に連れてきた丈身と狼藉者が切り合いになり、負傷者が続出。 そんな中で、不幸中の幸いというか、丈身たちは重症の者もいたのだが、命を落とした者はいなかった。 州侯暗殺をたくらんだのは和州州師であった。彼らは、十数名。 そのうち何人かは死体になっていたが、息のある者もいた。厳重に見張りを立てて監禁したが、 怪我の治療も同時に行われていた。

「まことによろしいのですか? 侯の御命を狙った者たちでございますよ」
そう、和州の官吏にもささやかれたが、当の柴望は、
「うむ、よいのだ。私はこの通り大事ない。それに、もとはと言えば私が州侯になったことが原因であろう。 納得できない者も多くいるのだろうが、ここは慶国の復興のため、和州の平和のために、こらえてほしいのだ。 この国は、何かが間違っておったのだよ。今までのような悪政がなければ、彼らは和州の良き守り人であったろうに。 もちろん、内殿で狼藉を働いたのだから、罰を受けてもらうのは当然だが、よくよく吟味して、その動機を突きとめよ!  それこそがこれからの政に通じるだろう」
そんな風に答えていた。
捕まった和州州師の中にも、柴望が敵味方区別することなく、自分の衣服を切り裂いて、 止血していたことを覚えている者もいた。もしかしたら、自分たちが妄信していたのかもしれないと、 反省する時間は十分にあったのだ。

 また、こんなこともあった。柴望が大声で下男達を呼んで、後片付けをさせた時のことだ。 いちいち細かいところまで指図をしないと動こうとしないのを見て、彼は不審に思ったのだ。 そこで、みなに尋ねたところ、呀峰の出した厳しい私語禁止令につきあたった。 どうりで、おどおどしていたわけだ。柴望は下男たちに必要のあることは内殿でも話してよいことを告げた。
「安心せよ。新しい主上は、慶の民一人ひとりが毅然として頭を上げることをお望みだ。 身分は礼儀としては必要だが、それ以上でもそれ以下でもない。もっと、明るくのびのびと生活しなさい」
 このことがあってから、和州の下男たちは、内殿でも声を出して話をすることが多くなっていった。

「それにしても、あの少年はいったい誰だったのだろう?」
自分を刺客から助け出し、おそらく火事の大元を絶ったと思われる、あのしなやかな風のような少年が、 柴望はとても気になった。

 前の日の深夜から一日中事件の対応に追われ、もう夕刻であった。 夕餉を早々にすませ、柴望はひとり、執務室で州侯としての仕事を済ませようとしていた。 五人いた丈身も、なんとか護衛につける者は二人、それも怪我を押しての警護なので、 柴望は強制的に休ませようとしていたのだ。
「いや、しばらくああいうことはないだろう。下がって休め。そして一日でも早く回復してくれよ」
「では、今日のところはこれにて失礼いたします」
「私は、すぐそこの控室で休ませていただきますので、何かございましたら大声を出してください」
「わかったから、早く休め」
心配そうな顔をしつつも、二人の丈身は床に就いた。
 この一件以来、下男たちも何かあったら大声で知らせるように命じられていたので、 今後柴望を亡き者にしようとたくらむ者は、まず内殿に努める下男たちを丸めこまねばならなくなるだろう。 そのくらいの信頼は、柴望は得たつもりでいた。
 圧政だったことが却って良いほうに作用したらしい。柴望は下男達から反発を食うどころか、 呀峰に比べて、使えるに足る州侯と取られたのだ。

 さて、その夜、柴望が州侯の仕事を一段落させ、床に就こうと席を立ち振り向くと、 そこに昨夜の少年が平伏しているではないか。「侵入者だ、誰か捕らえよ」と普段だったら叫ぶべきところだが、 柴望の頭の中にはずっと昨夜のことが引っ掛かっており、もう一度会えないかと心の片隅で思っていたので、 審議するよりも先に、安堵の念が湧きおこった。
「おお、そなた。昨夜は本当に危ないところを救ってくれた。感謝する。 私は、知っていると思うが、新しく和州侯になった柴望と申す。名を聞かせてくれるか?」
その少年はさらに頭を床につけ、
「空玲でございます」
と言ったのだ。
「何?!」
柴望は言葉を失った。その名前に柴望は覚えがあった。いや、むしろ空玲はどうしたのだろうと、 心配していたくらいだ。

 呀峰が暁天に連行されてから、後宮にいた姫たちは、それぞれの行きたい場所に丁重に送られていたのだ。 その中で空玲だけが行方が分からなくなっていた。海客ということもあって、引き取り手はいない。 帰るべき故郷もないのだ。そして、彼女だけはどうやら呀峰に愛されていたらしい。 どこかに逃げたか、呀峰を追って暁天へ向かったか、先を憂いて自ら命を絶ったか、 初めのころは一部で取りざたもされたが、生まれ変わろうとしているかに見える和州では、 そんなことにかまっている暇はなく、空玲という人間について気にする者は、今ではすでに皆無であった。 それでも、柴望は、空玲の言葉から遠甫の囚われている場所が発見されたりしていたので、よく覚えていた。 片言で話す美しい海客の姫だった。元気でいればいいが、などと思ったりもしていたのだ。

 びっくりした柴望だったが、気を取り直し、その場にひれ伏している少年のような下男姿の空玲に声をかけた。
「私の知っている空玲は、呀峰の愛妾だった海客の美しい姫だった。 そなたが空玲であるというのは俄かには信じられないが、ともかく面をあげなさい」
その声に応じて、その少年は顔を上げた。その顔をよく見て、柴望は、確かに面影はあると思った。 ひどくさっぱりして目立たない顔だが、きめ細かい肌で目鼻立ちが整っており化粧映えはするだろうと思われた。 さらに、喉仏や、胸、臀部など、きりりとしまっているが男とは違うようだ。何より、声に覚えがあった。
「ふむ、確かにそなた空玲であるらしいな」
柴望は、暁天で別れた新しい景王の陽子や鈴と無意識に比べていた。
――海客の女性はみな主上のように戦にたけているのか? もっとも主上は使令殿がお付きであったようだが。 いや、主上につかえていた鈴という娘も確か海客だと言っておったな。あの娘は、太刀周りなどできなそうだ。 いかにも少女らしい娘であったが――
「今は、何をしておるのだ?」
「はい。こちらで下男のまねごとをしておりました」
「なるほど。いや、それにしてもこの命そなたに助けてもらったことには変わりない。 何か困ったことはないか? できるだけのことはしてやりたいが」
「ありがたき幸せ。では、こちらで下男として雇っていただけないでしょうか?」
「それはお安い御用だが、そなた女ではないのか?」
「いえ、婢でも妾でもかまいません。侯の使い勝手の良いようにしてくださいませ」
妾と聞いて、柴望は顔を赤くする。
「いや、私にはそういう者は必要ない。そんな暇もないのでな。しかし、昨夜の戦いはみごとであった。 見事というより、私には風が舞うようにしか見えなかったが。どこであのような武術を身につけたのかな?」
「蓬莱でございます」
柴望は、目をむき、たたみこむように尋ねた。
「蓬莱とは、そのような怖いところなのか?」
「いいえ、とんでもございません。多くの人は戦うことなど知らずに一生を終えることができる、 ある意味大変平和な所でした」
「いや、実は主上も蓬莱から渡られてきたのでな」
「存じております」
柴望は心の中で唸っていた。海客で言葉がわからないにしては情報通だと思ったからだ。
「なぜ、主上のことなど知っておるのかね」
「呀峰さまからお聞きしました」
――なるほど、州侯の愛人であったな――
「主上は、この国に来たばかりのころ大変ご苦労をされてな。主上もお強いが、そなたもかなりの使い手であろう?」
――主上には使令殿がついておられるが、この者は実力であれだけの働きをしたとは。いったいどういう者なのだろう――
「ご不信はごもっともかと存じます」
「それに、そなたいつからこの部屋におったのだ? 全く気付かなかったのだが」
「はい、侯がお机に就かれるだいぶ前から居りました」
「ふうむ。左様であったか」
これにも柴望は驚いた。負傷したとはいえ、あの桓たい直々に仕込まれた、てだれの丈身二人が、 彼女に気づかなかったとは。気配を消すのがよほどうまいのであろう。
「では、なぜ私に仕えようと思ったのか聞かせてもらえるかね」
空(ソラ)は、姿勢を正して話し始めた。
「私は、この世界をもっと知りたいのでございます。長くなりますが、お聞きいただけますでしょうか?」
「おう、聞かせてもらおう。それから、やたらに平伏するのはやめなさい。主上が初勅で伏礼を禁止されてな。 どんな身分でも通常は面を上げたままでおれとおっしゃったのだ」
「左様でございましたか。では」
そう言って、空(ソラ)は改めて姿勢をただし、柴望の正面に座りなおした。

 それから、空は柴望に自分の身の上話をかいつまんで話した。蓬莱での職業のことも、 心に病があると蓬莱の医者から診断されていたことも、こちらにわたってきてからのことも、話したのだ。

「では、そなた蓬莱では刺客をしていたのか」
ため息とともに柴望は尋ねた。
「人を殺したことも、確かにございました。どいらかといえば、情報を集めるのが主な仕事でしたが」
――忍びのような事をしていたのか。それならば、あの腕も納得できるが――
「感情が無いと言っていたが、喜怒哀楽が無いのか?」
「そうですね。あるふりはできると思います」
「では、たとえば昨晩に何人か私への襲撃者を殺傷したが、罪悪感などは湧かないのか?」
「善し悪しの判断はしているつもりでした。もし、誤っていたならばお詫び申し上げます」
「いや、そういう意味ではないのだ。確かにあのときはそうでもしなければ私が死んでいただろう。 ただ、人の命を奪うのに、抵抗はないのかということののだが」
「ございません」
空は、はっきりと答えていた。
「そうか……」
 柴望は、この娘は放っておくとかえって危険ではないのかと思った。
「空玲よ、そなた、蓬莱では何という名前だったのだ? その名前はこちらで付けた名前であろう」
「はい、空玲というのは明郭の妓楼でおかみにつけてもらいました」
「やはり、源氏名であったか」
「元の名は、渡辺 空と申します」
「ソラ、か」
「はい」
柴望は感慨深げに復唱すると、
「空(ソラ)のほうが良い名ではないか。そなたに合っているような気がするぞ」
「恐れ入ります」
「こらからは、空(ソラ)と呼ぼう。私の丈身となってくれるか?」
「御命をお守りするということですか?」
「ああ、そうだ。表向きは庭の手入れを頼もうか。昨夜のような輩が襲ってきたら、また守ってほしい。 他に何か必要なものはあるか?」
「当面は、ございません。私を信用していただけるので?」
「ふむ、これでも人を見る目はあるつもりだ。安心しなさい」
「これは、失礼いたしました」
「それから、できるだけ殺さないようにできるか? あまり簡単に命を絶ってはいけない」
「肝に命じまして」
空は、柴望のことを、自分の直感通りの実直で懐の深い人物だと評価した。

 蓬莱でも空は淡々と任務をこなしてきたが、どんな任務をどのように依頼してくるかで、 依頼人の評価は決まってくるものだ。

「空よ、常世についてもおいおい伝えていきたいと思うが、今はまだ和州も安定していない。 しばらく、ゆっくり話もできないかもしれないが、勤めてくれるか」
「かしこまりました」
今度は、伏礼ではなく、空は跪礼の形を取った。

 柴望は、しばらくの間、空のことを周りに伏せておくことにした。彼女は海客なので、片言では話せるが、 仙でない限り細かい会話は難しい。むしろ口数の少ない下男とでもしておいたほうが、自然なのだ。 今までも空一人で下男になり済ますことができていたのは、内殿にいる限り、ほとんど話さないですんでいたからだ。
 柴望は、空の生活を多少心配したが、本人が大丈夫だと言っているので、まかせてみることにした。
「侯よりは、私のほうが内殿については詳しいと思います」
空の言葉に嘘はなかった。

 こうして、空は、柴望のもとで表向きは庭師として、使えることになった。

 それからしばらく、柴望は忙しいながらも比較的平穏な日々を過ごすことができた。 丈身たちも、しだいに元気になり、空は庭の手入れ専門の下男として、 今まで以上にごく自然に内殿での雑用をこなすようになっていったのだ。