空、動く





 さて、空はこの不穏な空気をどのように見ていたのだろうか。 その話をするには、少しばかり時をさかのぼらなくてはならない。

 空が、和州の内殿で、ちょっと以前から務めている下男のようにふるまいはじめて半月も経ったろうか?  閑散としていた内殿がにわかに騒がしくなった。

 めったに来ない上級官吏が、下男を集めて仕事ぶりや人柄の吟味をするという。 空は、もちろん正式に雇われているわけではないので、そのまま集合するわけにはいかない。 下働きをする者たちの控の間、その床下に、彼女はそっと隠れた。 どうやら、配置換えをするらしい。 空の位置からは、はっきり聞き取れなかったが、半分以上下男が外殿のほうへ回されるようだ。 この上級官吏は仙だったらしく、空にも話の内容をだいたい理解することができた。 新しい州侯が来るというのだ、しかも今夜。 もう日は傾き、あたりはうす暗くなってきているというのにだ。 ばたばたしているのも無理はない。 一方、急な配置換えや、州侯を迎える準備という新しい指示に一言も声を上げることのない下男たち。 空はなんとなく違和感を覚えたが、呀峰の出した私語禁止令はいまだ健在のようで、 その後も余計なことを話すものは一人もいないまま、 そこに集められた下男たちは、配属されたそれぞれの新しい仕事場に散っていった。

 この後すぐ、久しぶりにまかないが動き出した。かまどにも火が入ったようだ。 空はさりげなく水くみや薪割りを手伝い配給される食糧を口にする。 内殿のほうに残った下働きの人間はざっと数えて二十名程度だろうか?  ずいぶん減らしてしまったものだ。 人数が減れば、正式に雇われていない者は目立ちそうだが、 幸い空の出自を咎めるような様子はなく、その夜の仕事が終わると、 下働きの人間は、内殿を出た外殿の端にある下男の仮寝所に引き揚げてしまった。

呀峰が州侯として執務をとっていたころは、夜通し起きている下男が必ずいたものだが、 今はあいまいになっている。 今日から新しい主人がここに来るというのであれば、数人の者が起きていてもよさそうなものだが、 どうやら全員内殿から追い出されてしまったようなのだ。 空は、後宮へ隠れることもできたのだが、どんな州侯が来るのか確かめる必要を感じて、 園林にある常緑樹の間に隠れ、様子をうかがった。

 夜も深まったころ、内殿の入り口が開く。 ここでは珍しい光景だが、数人の男たちがしゃべっているようだ。 回廊を渡り、執務室のほうへ近づいてきた。 空にとっては、今だによくわからない常世の言葉。 しかし、その中でなぜか理解できる言葉が混じっている。
「○□×♪、ααB☆◎」
「ああ、呀峰のもとでずいぶんとひどい仕打ちもあったかもしれんな」
「××○○」
「ふむ、ひどくおどおどしていたが不審な者はいなかったと思うが」
「π○AA、●☆□@@」
「○○×□□」
「ああ、ほんとうに静かだ」
……
たわいのない日常会話のようだ。 どうやら、控えの間では、明日から州侯が生活する上で必要な諸事を行う下働きの者たちを、 新しい州侯自ら検分していたらしい。
――しかし、この声色どこかで?――
空は、記憶をたどる。それほど昔に聞いたわけでは無い。
やがて、回廊を歩き切った一同が執務室の前までたどり着いた。
「ほう、美しい園林だ。しかし、手入れを怠ったようだな」
「●○□、××αΩ」
「なるほど。呀峰という男、存外小心者だったかもしれんぞ」
「×××!」
「○○AR○!!」
男たちはいくばくかの笑いを残して、執務室の中に入って行ったのだ。

 空は、先日「夏官」という役職の国官が固継の閭胥遠甫という人物を探しに来たことを思い出した。 そのときに、一緒にいた四十前後の落ち着いた男。どうもその男のような気がする。 一兵卒にしては品格があり、自分の身の上も心配してくれた。 一緒にいた兵たちもその男のことを上官のように扱っていた。
――しかし、彼らは麦州の元州師であったようだが?――
この国では、敵対している州の人間が、いきなり相手側の州侯になど、なるのだろうか?  空はいぶかしく思った。そういえば、以前後宮で空玲として出会ったときは、この男は話が通じなかった。 おそらく「仙」ではなかったのだ。ところが今は話していることが空にも理解できる。 早い話が、空には日本語に聞こえるのだ。ということは、「仙」になったということではないか?  呀峰から聞き取った話によれば、官吏でも位の高いものは「仙」になれるということだ。 州侯というのは、蓬莱で考えれば、県知事のようなものだろう。 あるいはもう少し権力の範囲が広いのかもしれない。 蓬莱の県知事は行政を行うだけで、軍備は持っていなかったからだ。
――戦国大名のようなものか?――
空は思った。
―― あの男は、どんな思いを持って州侯になったのだろうか?  自分が常世の知識を習得するために利用することは可能だろうか――
 呀峰には、中央で今よりももっと強い権力を持ちたいという野望があった。 そういった人間に近づくのはさほど難しいことではない。 あの新しく州侯になった男は、この間の様子から判断して、 少なくとも表面的にはだが、呀峰に比べて己の欲望にはあまり関心がないようにみえる。 利用するとしたら、呀峰よりも面倒な気がした。さて、どうするか。 空は考える。一度空玲として会っている。それを利用するか?  それとも、自分の能力を買ってもらうか? はたしてどちらが良いだろう?  空は静かに木から下りると、その場から立ち去った。

 空は、このあとも誰にも見とがめられずに下男としての生活を送ることができた。 用意される下働き用の食事の数などでわかってしまいそうなものだが、 賄いの食事は大なべで、ごった煮のようなものが多かったから、器一つあれば事が足りた。 そういった器などが用意できないほど、空は無能ではない。 また、新しい州侯が来た初日だけは、下働きの者は全員内殿から追い出されてしまったが、 日を追うごとに、何人かが夜中も働くようになっていったので、 空にとっては生活するのに好都合だった。 三日目からは、蓬莱で言う秘書のような文官も昼の間は内殿に出入りするようになっていた。 また、園林をよく探せば、木の実、草の実が沢山あるのだ。 空は後宮にいたころから、どこに何があるか実によく調べていたので、 配給の食事がなくても特に困ったりはしなかった。 よく訓練していた空の身体は、粗食でも十分耐えられるような状態を保つことができていた。

 空は新しい州侯の周りを見ていて、ひとつ気がついたことがある。 初めての晩に州侯とともに内殿に来た五人の兵士風の男たちは、 どうやら新しい州侯の私設警護集団であるらしいということだ。 どの男もみな優秀なガードマンだと空は認識した。 しかしながら、ここ和州の官吏や兵たちとは異なる雰囲気を持っている。 いつも州侯のそばに適当な距離を置いて四人が護衛にあたっていた。 こっそり州侯本人に近づくのは、空であっても至難の業だ。 むしろ、正面から自分で願い出たほうが、この十二国の世界を知りたいという思いは通りそうだと判断した。

 そんなことを考えながら、空は、園林の中を風のようにさりげなくすばやく、 人出が足りなそうな所へ自然に顔を出し仕事を手伝っていた。 それほど広い場所ではないのだが、普通の男が一回りするのには四半時以上かかるだろう。 それを身軽な空は、あっという間に移動する。 屋根や大きな木、室内に入れば天井、床下。 あらゆる所を通り抜け、しかも音一つ立てない。 いや、立てている音は周りの音に調和されて、他人には気づかれないということだろう。
 そうこうしているうち、空は下男の数が少しずつ増えていることに気がついた。 しかも、朝は増えているのだが、夜寝所に向かう人間を数えると元の数に戻って、 行き帰りの人数が一致しないのだ。仕事が忙しいので手伝いを頼んでいるだけならば、 その仕事が終わった時点で外殿に戻る人間がいるはずなのだが、それがない。 控えの間から内殿へと、入ってきた人数と、 その夜寝ずに働く者と出ていく人数を足したものが同じでなければおかしい。 どうなっているのかを確かめるため、空は見かけない顔の下男をひとり心に定めると、 その男を一日観察することにした。
 空に目をつけられた男は、不思議なことに、朝内殿の入り口を通ると、 ほとんど仕事をせずに過ごした。 夕刻近くになると、園林の奥に入っていく。 しかも、そう大きくはないが荷物を背負っていた。 どこまで行くのか、空はこの園林で一番高いと思われる木に登ると、葉蔭からその背中を目で追う。 園林の端、凌雲山の崖まであと少しというところで、その男の姿は消えたように思えた。 何かある、そう思った空は、反対の方向から回り込むように、消えたように見える場所の近くまで寄っていく。 崖のふもと近く、いくらか岩盤が貼りだして高くなっている所。 不自然な形で木の枝に覆われている所がある。 どうやらそこには縦に亀裂が入って、凌雲山の切り立った崖の内部に向かって穴があいているらしいのだ。 空がじっと観察していると、そこから、ふっと人の顔が出てすぐに引っ込んだ。 あたりをうかがっているようだった。それを見定め、空はこの場は深追いせず、下男の仕事に戻り、夜を待った。

   あたりが真っ暗になるころ、下働きの者たちは内殿を出ていく。 賄いの者がほんの数人残っているだけだ。その時間はさすがに空も働いているふりは難しく、 天井か床下、もしくは園林の中で過ごしている。新しい州侯は、今のところ仕事熱心で、 夜遅くまで、執務室にて多くの書簡を開き読み込んでいる様子だ。 下男とは別に自分の周りに、初めてここに来た時に連れていた男たち、腹心の者たちなのだろう、 個人的警備の者を昼間以上にそろえて、あたりに気遣っている。 空は観察しながら、まだ明るいうちに確認した亀裂のある場所へと誰にも知られないように移動した。
 空は、気配を消すのが得意だった。 常日頃、動物や虫たちでさえも、空に気づかず、いつものように這いまわる。 今は冬から春に向かう時期。昼間は小動物が這い出してもおかしくない陽気だが、今は夜。 月の明かりだけでは、まだ羽虫も凍えて飛ぶことはできない。 亀裂の中から、ほんの少しだが光が漏れている。非常に静かであったが、人の話し声も聞くことができた。 周りの空気の流れや、音、振動、そういった情報をじっとして吸収している空。 彼女は、この亀裂が思いのほか内側で広がっていることを理解した。やがて小さな明かりも消える。 ざっと十数人の人間が中で何かを相談している。 そういったことは読み取れたが、詳細はやはり言葉が通じないのでわからない。 仮に、今の州侯を亡き者にしようとたくらんでいるとしたら、 集まっている人数からいって今の州侯が不利になるだろう。 ここの下男は州侯が襲われてもそれを守ったりはしないように思われたからだ。 護衛の人数は四人、いつも休んでいる男を入れてもたった五人なのだ。空は、今少し様子を見ることにした。

 何事もなく時が過ぎる。
 今日は、空が不審な男が集まっている崖の亀裂を発見してから数日がたっている。 この亀裂に集まる男たちの人数はそんなに増えていなかったが、かわるがわる持ち込む荷物の量が増えていた。 最初はほんのひとかかえもない荷だったのに、細長い物、円筒状の物がいくつか運び込まれた。 空はおそらく武器であろうと思っていた。
 荷運びが一段落したと感じた時、空は今夜あたり何か動きがあるのではないかと考えた。 昼のうちは、新しい州侯はこの内殿にいないことが多い。 空は相変わらず下男として動いていたが、昼の間はあたりに不審な動きはなかった。 夜になるまで待って、空は園林で一番高い、杉のような葉をした常緑樹に登る。 この木は随分と古いらしく、てっぺんのほうまで手入れが行き届いていない。 まっすぐな幹は、建物の柱を作るには具合が良いので、昔は枝払いをしていたのだろう。 幹の下半分くらいは枝が払われているものの、木が高くなってしまってからは、 上部を手入れするような下男を雇っていなかったようだ。 伸び放題になっている。空が姿を隠して下の様子をうかがうにはもってこいの場所だった。 案の定、亀裂のあたりから人が出てくる。 空は夜目がよく利いたので、人相までは無理でも、どこに何人ぐらいが動いているか、 周りの草木の動きで知ることができた。集まっていた男たちは、兵として訓練を受けた者たちのようだ。 しかし、隠密行動は苦手らしく、動きが荒い。空から見れば、ありのまま見えているのと同じことであった。
――三つに分かれたか。一団は裏へ? 何をしているんだ、まさか、火をかけるのか?  煙が上っているようだ。内殿にいる人間を、外に追い出すつもりか。 正面は大勢だな。ん?弓を持っているのか。木の上から狙っている。 後の一団は入り口を抑えるのか。救援を呼ばせないためか?――
そう思って見ている空の耳に、大声で「火事だ!」と叫ぶ声が聞こえてきた。 ややあって、シュッという風を切る音が一つ。
――いや、正面の二人は射ていない。奥の煙が上がっている場所にも射手がいるのか。 用意周到だな。おや? ああ、あれはいつも表を巡回している護衛の兵か。 あ、又矢の音が。これで、おそらく二人つぶされている。私は、どうする?  残りの護衛は三人で、おそらく入り口を抑えているほうが寝所の護衛を足止めさせているだろう。 概算で十数人いたはずだ。正面は、新州侯を入れても三人。州侯も戦うことができると仮定して十人対三人。 これは、五分五分というわけにはいかないな――
 空は、感情が無い。少なくとも表には出ないのだ。 普通こういった場合、人は自分に自信があれば気分が高揚するし、 なければ恐怖するのだが、そのどちらの感情も空の心にはこみあげてはこない。 そこには計算があり、判断があるだけだ。蓬莱にいた時は、判断すら自分ではしなかったのだから、 空は常世に来て、逆に人間らしさを取り戻しつつあるといえるかもしれない。

   空は、計算し判断した。空は何をするか、心に決めたのだ。

 煙があたりを包む。執務室にいた柴望とその丈身二人は、何かありそうだとわかっていたが、表に移動してきていた。 一方、内殿正面に潜んだ者たちは、腕の立つ者が両端から攻めかかろうとしていた。あえて正面を開けてある。
 柴望を襲った和州の州師たちは、作戦が滞りなく進んでいることを確信していた。 このあと、最悪の場合でも、裏手から上がった火の手にあおられて、憎い元麦州の輩が正面に出てくるはずだ。 仙といっても首が胴から離れれば死にいたるはず。その為にこの冬器を苦労して手に入れたのだから。 じりじりと間合いを詰める。相手にはまだ覚られていない。

「柴望様、表に出てください。ここにいては煙に巻かれます。お早く!」
後ろを守っている丈身がささやくように伝える。
「ああ、わかっているが、これは単なる思いつきや感情に任せた犯行ではなく計画的に思える。 外には待ち伏せしている兵がいるやもしれんな」
慎重な柴望は、突然飛び出したりはしない。
「何か、盾になるものをお持ちですか?」
前の丈身が尋ねる。そこに敵が近付いてきた。
前後に位置して柴望を守っていた丈身たちは、狼藉者の姿を確認して、太刀を取る。
ついに敵が切りかかった。前から来たやつだ。 続いて後ろの丈身も、怪しい兵と切り結ぶ。 金属どうしががちっと合わさった鈍い音がした。 狙われているのは柴望であることは明白だ。しかし、まだ彼に直接切りかかる者はいない。 彼も小ぶりの太刀を抜き、身構える。
 柴望自身は戦えないわけではなかったが、てだれというほどでもない。 裏を見に行った者も、巡回しているはずの者も、休憩中の者もこちらへやってこないところをみると、 敵はいくつかに分かれて襲ってきたに違いない。 じりじりと外へ追いやられる自分たちが歯がゆかった。 やはり少し油断をしていたようだ。こんなところで、主上や浩瀚さまの思いを無駄にするわけにはいかん。 しかし! 柴望の頭に後悔の念が広がる。
 すでに回廊まで出てしまった。この先には白石を敷き詰めた大きな庭が広がっている。 灯りはなく、吐く息は白かった。その息が裏から漂う煙と混じり合い、あたりの見通しをさらに悪くしていた。 丈身たちは、敵といたずらに切り結ばず、柴望をなんとかここから脱出させることを考えていた。
 前を進んでいた丈身が大きく太刀を振り、敵を後退させ前へ出た。
「柴望様、早くこちらに」
と言って数歩園庭に踏み出したところに、シュッという鋭い音がした。
「ううっ」
とうめいてその丈身は、柴望のほうを向きながらうつぶせに倒れてしまった。 背に矢が突き刺さっている。それほど深手ではなさそうだったが、彼は身体がしびれてくるのを感じた。
――毒か――
薄れる意識の中で、必死に持ち上げ正面を向いた、彼の瞳に柴望の心配そうな顔が映った。
――しまった――
柴望は、表から矢で狙われていたことに気づかなかった自分たちを呪った。

 一方、自分の心を自分で定めた空は、 まず自分のいる木から園林端の木にいる和州の射手までの距離を一瞬で捉え、 その距離のちょうど中央より少し手前の若い木に目をつけ一気に落ちるように飛び降りる。 その木の弾力を利用して射手の木まで放物線を描くように飛び上がった。 射手の腰かけた木の股をめがけ射手の反対側から、飛び上がる勢いを遠心力に変え、 左手を中心にくるりとまわり、射手の正面からもう片方の右腕をその首に巻きつける。 その速度を利用して、締め上げた。 声を上げる暇もなく悶絶する射手をそのまま木の枝に二つ折りにして、 まるで物干しに洗濯物を干すようにかけると、その背に持っていた矢筒の矢を三本ほど抜く。 まだ、敵は正面の攻撃に集中していたので、隣の木にいたもう一人の射手は気づいていない。 空は、射手を葬ったその木のてっぺんまで登ると、自分の体重をうまく移動させ、 勢いをつけて隣の木へ飛んだ。矢を番えていたもう一人の射手は、大きな梟が飛んできたかと思っただけで、 園林の向こうに憎い麦州出身の新州侯が出てくるところを狙うことに集中し、構えていた。 そのこめかみに矢の先が刺さる。この射手は何が起こったかわからぬまま、体から魂が抜けた。

   執務室の前では、緊迫した状況が続いていた。柴望のそばにいる丈身はもう一人になってしまった。 柴望を気遣いながら、残った丈身は前から来ていた敵と切り結ぶ。 ガチン、ギィィ…… 刃こぼれするかのような鈍い音。ふたりの敵は、かなりの腕だ。
「柴望様! お逃げください!」
そう叫んで、残っていた丈身が倒れた。柴望は、覚悟を決めなくてはならないと思った。 この二人の敵は明らかに自分より戦闘能力が上だった。戦っても勝ち目はないだろう。柴望は太刀をおろす。
「お前たちは、何者だ」
落ち着いた声だった。
 二人のうちの一人が、柴望の様子を見て自分も太刀を下した。
「和州、州師さ」
そう言って、にやりと笑う。自分たちの勝利を確信していた。
――やはり州師を先に抑えるべきだったか――
柴望は、自分の打った手順が少しずれてしまったことを無念に思った。

   その時だ。突然風が柴望の周りを舞った。 その男は、声もなく柴望の前に倒れる。頭のあたりから真っ黒な液体が流れ出す。 鼻を突く鉄錆の香り。血だ。ぎょっとして柴望が一歩後戻りをすると、 反対側で太刀を構えていた、もう一人の敵が、
「麦州め、よくも!」
といきり立って突進しようとしていた。しかし、次の瞬間やはり前のめりに倒れ、動かなくなっていた。

 あっという間の出来事だ。柴望の前で風のように敵を沈めた空は、 周りにいた和州の狼藉者を一人残らず、戦闘不能にしていた。 射手の二人を沈めた空は、残った二本の矢を持ってそっと木から伝い下りる。 向こうで切り結んでいる者が二人。散開した輪を、じりじり狭めて前へ進んでいる者たちが六名。 空は、まだ園林から出切っていないものから順に、襲いかかる。 一人目は矢を延髄に到達する程度に首の後ろから刺す。二人目も同様にして仕留めた。 矢が無くなったので、二人目の男が持っていた太刀を奪い、三人目を袈裟切りにする。 さすがにこの男は、気を失う前に、
「な、何かいるぞ!」
大きな声は出なかったが、残りの見方に伝えた。 しかし、執務室前で柴望たちとやり合っている見方までにはその声は届かない。
 振り返って後ろを確認しようとした四人目を、 空は思い切り飛び上がってこめかみに狙いを定め太刀を振り下ろす。 勢いよく吹き出る血液を浴びないようにかいくぐり、五人目の後ろに迫る。もう園林を抜けて、白洲に入っていた。
 さっきの男から奪った太刀は切れなくなってきている。 それほど切れ味の良い武器ではないようだ。刃こぼれしても、その重さを利用して、 叩きつけるように使えばりっぱな得物だが、こっそり忍び寄り一撃で命を奪うには、少し大ぶりすぎる武器であった。
 空は、低い位置から自分の体をものすごい速さで回す。 遠心力を利用して、相手の足をなぎ払った。「うおっ」と声をあげて、前に倒れる男のやはり首に狙いをつけて、 太刀を振り下ろす。これで、少なくとも声を上げることはなく動くこともない。
 その太刀を捨てて、空は五人目の男が持っていた太刀を奪う。 これは、細身で切れ味のよさそうな刀であった。 六人目は、まさか後ろから自分が襲われるとは思っていなかったようで、びっくりして動けないでいた。 空は相手の懐に入り、刀のつかで強く胸を打つ。六人目は声を上げることもなく白洲の上に倒れた。
正面では新しい州侯とその護衛の者がにらみ合っていた。 すでに護衛の一人は倒れている。煙もかなり広がっていた。
 空は、全速力で走った。まず、柴望に近いほうの人間をすれ違いざまに切りつけた。 首を狙ったがうまく切れたらしい。やはり良い得物はよく切れる。 そのまま、勢いをつけもう一人の男も、腹を薙いだ。前に倒れたので、おそらくすぐには動けないだろう。
 新しい州侯がとりあえず安全になったことを確認すると、空は、表に出て、 執務室の屋根に飛び上がり、屋根伝いに裏へ回る。裏手の木の上に向こう側を狙う射手の姿を認めた。 大丈夫、飛距離は短い。ためらわずに射手に向かって飛び、一気に切りかかる。 右手に深手を負い、その射手は木から落ちた。 そのまま、空は飛び降りて、見回りの護衛と切り結んでいた三人に向かう。 その護衛は、何箇所か傷を負いながらも、まだ戦っていた。 その中の一人が大きく前へ出て護衛と勝負に出たその時、空は残りの二人をあっという間に沈め、 残りの一人の両脚の腱を切った。 攻められていた護衛は、何が起こったかすぐには分からないようだったが、 敵が三人とも倒れているのを見て、痛む身体に鞭打って、柴望がいるはずの表に向かおうと、歩き出した。
 空は、それらを確認する間もなく、すぐに屋根に飛び移り、内殿の入り口を目指した。 丈身部屋の前で、中の護衛を足止めしている三人を認めると、問答無用で切り伏せていった。 一人目は足、二人目は武器を持った手、三人目は背中に切りつけた。 あっという間に終わらせると、空は再び執務室のほうへ屋根伝いに戻った。
「あれは何だったんだ?」
柴望は思わずつぶやいていた。彼の丈身は、重体だったが二人とも息はあった。 また、彼を襲った二人のうち、一人目のほうはこと切れていたが、もう一人のほうは息がある。 思わず自分の袍衫を裂いて三人の止血していた。 そこに、下男の身なりをした少年が、屋根から飛び降りて柴望の前で平伏した。 血のりがべったりと付いた細身の刀を持っている。
「そなたが、私を救ってくれたのか?」
そう尋ねると、少年は、さらに頭を地に擦りつけ、肯定の意を表した。 治療を手伝うように、頼もうと柴望が声をかける前に、その少年は口を開いた。
「もう、今夜は侯を襲う者は現れないでしょう。それよりも早く火の手を止めるべきかと。 助けをお求めください。私も火を消すよう努力してみます」
「おお、そうだな。そなた……」
名前を聞こうと思ったのだ。その前に、その少年はどこかに消えてしまった。
「そうだ、私は和州の州侯であったな」
苦笑いしながらも、治療の手を休めず、大きな声で
「誰か! 誰かいないか!!」
柴望は、そう叫んだ。