まだ冬の寒さが残る金波宮、雲海の上、国王の執務室には、景王陽子と何人かの男たちがいた。
「では、よろしく頼む」
「主上、かしこまりまして」
「息災でのう」
「老師、ありがとうございます」
「貴方が、和州を収めてくださると思うと、ほっとします」
「おお、台輔にそのようなお言葉を頂けるとは、思い残すことは何もございません」
「おい、簡単に死ぬなよ。一番の貧乏くじはお前かもしれんな」
「いや、冢宰でしょう」
ここまできて、壮年の男は初めて笑みを浮かべた。彼、柴望にとっては夢のような何日間かが過ぎて行ったのだ。
金波宮へといざなわれ、恩師である遠甫にも再会し、そこで見たもの聞いたもの、
予想の範疇だったこともあるが、大部分は驚き、改めてかつて自分の主(あるじ)だった男の
見る目信じてよかったと思った。かつての柴望の主とは、言うまでもなく浩瀚である。
もちろん、このときはすでに、柴望の主は、陽子になっていたのだが。
「柴望様、あとでちょっと兵舎へ寄っていただけませんか?」
「なんだ桓たい、私はそれほど暇ではないのだぞ」
「わかっております。お手間は取らせませんから」
「あいわかった。では、皆さま。準備も整いましたので、これにてご免つかまつります」
「うん、元気で! 和州の人々を、よろしく頼む!」
「主上、柴望命に代えましても……」
「代えるな! 危なくなったら奇獣で戻って来い。ここがお前の家だと思っていいんだ」
「主上……」
柴望自身も、陽子に会って一目でその王気を感じ、また、
浩瀚がその人となりを少ない情報の中から思い図っていたことを知った。
大いに納得すると同時に、この王ならばと、拓峯の乱以降、
陽子と出会った多くの人々と同じように、柴望もまた信じることができたのだ。
その王から、優しい言葉をかけられ、思わず涙を流すところであったのだが、
「主上、官を甘やかしてはいけません。それではまるで娘を嫁に出す父親のようではありませんか」
当の陽子は、そう、浩瀚にくぎを刺され、苦笑していた。
「父親っていうのがちょっと引っかかるぞ、浩瀚」
「左様でございますか?」
陽子の小さな抗議を軽く流すと、浩瀚は後ろへ下がった。景麒に場所を譲ったのだ。
「和州はまだ平穏とは言えません。十分に気をつけて」
「台輔、ありがとうございます」
浩瀚と桓たいは、ふと眼をかわし、柴望を見る。柴望もまた何かを感じて、目で頷いた。
柴望は、陽子から和州侯を任ぜられ、これから和州城へと出立するのだ。
新しい州侯の就任といっても、派手なことは財政上できない。
朝議で挨拶こそしたもの、警固につくのはわずか一両という少なさだった。
荷物といっても、ほとんど無く、柴望が冗談交じりで、「先日まで罪人でございましたので」
というのを聞き、今更ながら大変な時を乗り切ったものだと、皆で痛感したのである。
そのちょっとした間に兵舎によると、桓たいが
「この者たちをお連れ下さい」
といって、5人ほどの男を紹介した。
一見、ごく普通の男たちであったが、柴望にはすぐに彼らが相当の使い手であることがわかった。
「桓たい、お前も大変だろう? 良いのか、むしろ主上や冢宰には?」
「ご心配なく」
「ふん、なるほど」
陽子様というたぐいまれな王を抱き、そのそばに冢宰として我らの浩瀚様がいらっしゃれば、
慶はきっと復興するだろう。柴望はそう思っていた。
浩瀚、桓たい、柴望、彼らの考えは一致していたのだ。
もちろん、桓たいは腕のいい麦州師をさりげなく陽子と浩瀚のそばに配属していた。
そして今、柴望にもそうしようとしていたのだ。
「お前に心配されるとは、私も存外偉くなったものだ」
「何をおっしゃいますか、柴望様。お気をつけください、あの呀峰の城ですからね」
「わかっているとも。この前、老師を探していた時も危なくとらえられるところだったよ」
「やはり……」
「心配するな。主だったものは、もう罷免されているそうだ。あとは事務官ばかりだよ」
「それなら良いのですが」
桓たいの心配は正しい。
確かに、呀峰の命を直接執行していたのが明らかな官職の者は、仙籍から外し罷免していたが、
それで安全とは限らなかった。柴望の言ったことは気休めでしかない。
「それでも、行くのさ。お前たちが、ここで踏ん張るのを見ていたら、私も負けるわけにはいかんからな」
「そうですね。何しろかつてのお尋ね者が、冢宰・州侯・左将軍ですからね」
「おい、滅多な事を言うなよ。それは逆に主上を貶めることになるやもしれんからな」
「わかっていますってば、大丈夫、今の主上は大変良い方ですからね」
お互いに笑みをかわし、軽く抱き合うと二人は別れた。柴望は、いよいよ、和州城に旅立っていった。
空行師を借りて、柴望一行が和州城に着いたのは、日が暮れて辺りはもう真っ暗になった時だった。
平伏して迎える和州の官吏たちに、柴望が最初に行ったのは、
陽子が出した初勅とその説明であった。州侯の椅子から立ち上がり、
陽子と同じように朗々とした声でひれ伏す官吏たちに立つようにすすめ、
これからは時代が変わるのだ、と語りかけた。
呀峰の行う政治に、ことさら批判をするでなく、
しかし、これが良いことだと思っていたわけでもない官吏たちは、
かなり感慨を受けたようだ。それと同時に、平伏をしないということが、
どんなことになるのか、不安になる官吏もいた。
また、それらとは全く異なる関心を持って、新しい州侯を見ていた者達も、
少なからずいたのである。
例えば、和州師の中で麦州師に何度も煮え湯を飲まされた兵などは、
新しい州侯がかつての麦州の州宰といううわさを聞きつけたとき、
目にものを見せてくれると、怒気を発していたのだ。
とはいえ、はじめの一週間は、ほとんど各州府のあいさつ回りだった。
嘘のように何事もなく過ぎた。州侯の執務室でも、ごく普通に執務をこなして過ごすことができた。
桓たいがつけてくれた元麦州軍出身の丈身たちは、
きちんと交代をして柴望が使う執務室の付近を警備していたので、大事は起こっていなかった。
内殿に当たる、雲海上の州侯のすまいにも下官は幾人かおいていたが、ひっそりとしていた。
まだ、和州の者をそばにたくさん置くほど、平和とは言えなかったのだ。
後宮も基本的には閉めていた。
柴望には妻子はいなかったし、こちらに入れる女の予定も無かった。
広い園林は、荒れだしていた。
柴望は、ここで別れた美しい海客の娘を思い出していた。
「あの者は、どこへ行ったのだろう?」
そう、空はいったいどうしたのだろう。
半月ほど時を遡ってみる。
あっという間に姿を消したあの兵たちは、うまく逃げられたのだろうか。
空は漠然とそんな事を思っていた。
ここは、空のいる後宮の館、和州の兵は金波宮の夏官とかいう官吏と共に、空の宮を出て行った。
探している老人は見つかったのだろうか?
空は考える。
このまま、ここに残っていてもおそらくは、解放という名目で出ていくことになるだろう。
もしくは、和州侯の罪について証言をすることになるかもしれない。
うっかりすれば、その手の者たちに証拠隠滅のため命を狙われかねない。
そう考え、とりあえず安全な場所に隠れたほうが良いだろうという結論を出し、
空は高価な美しい襦裙を脱ぐときちんとたたみ長持ちの中にしまった。
それから、化粧をすっかり落とすと、以前から利用している下男の袍衫を身に着け、
執務室の近くに潜むことにした。
空としては、もう少しこの不思議な世界の理(ことわり)を学んでいたかった。
しかし、言葉の壁は何ともしがたい。彼女は、和州という場所や官吏の生活など、
言葉と合わせて知りたかったのだ。
和州の州侯の愛妾、この環境は、あまりにも今の自分に適していた。
だが、呀峰は戻ってこない。
そうだろう、空はその近くにいて、呀峰が直接空に教えなかったことも、
執務室の影からそっと聞いていた。彼の和州の納め方は、いつ破綻が来てもおかしくないやり方だった。
それが、起こったということだ。
むしろ、そうやって呀峰をとらえることができた新しい国王を、天晴れというべきであろう。
あまり、急いで動くことはないかもしれない。
この後宮から州侯の執務室にかけては、何がどこにあるのか空は捉える事が出来ている。
自分としては、どこへ行っても生きていくことはできそうだが、
言葉がある程度できなければ、また妓楼へでも行くしかない。
ここで、白陀のことを思い出した。あの妖魔は確か、「
海客が生きていくには一番適している」というようなことを自分に語っていた。
空は、日本にいたときは、一般事務程度であればかなりの職能を持っていたので、
どんな会社や官庁でも働くことができた。
ただ、その心理的障害の特性で、接客のようなことは苦手な分野だった。
もちろん、本職は私的な諜報員。スナイパーとしての腕は超一流。
だが、常世で本職を活かすには、良い雇い主を探す必要がある。
空は、「殺し」に関して何の感傷も持たなかったが、いや、持てなかったのだが、
誰でも殺してよいとは思っていなかった。
空の育った渡辺家では、殺しの報酬と共に、殺しの理由にもこだわっていた。
恨みは勿論、政治を左右するような要職にある人物の依頼でも、十分吟味の上引き受けたのだ。
最も、莫大な報奨金を出せるような人間は、簡単に人殺しを頼んだりはしないものだが。
だからというわけでもないが、
空はこのまま下界に降りて何となく生きていくことはよくないと判断していた。
深層心理では、「怖い」と感じていたのだろうか。
残念ながら、表向きは、そう言った感情が空には無いのだ。
「次の州侯を待つ」
空は、そう決心すると、下男の一人になり済まし、生活をすることにした。
野山で寝泊まりするよりも、ここで暮らしたほうがはるかに楽であることは確実だ。
食事も、雨風をしのぐにも何の苦労もいらない。雲海の上にいれば、雨風すらそもそも無いのだ。
彼女は、日が経つにつれ、執務室の近くで働く下男の数が減っていくのを感じた。
美しい園林は段々下草が生え荒れてきている。
ただでさえ冬を終え春になっていく気候の中で、木々の芽は膨らみ、
上空へ向かって伸びようとしているとき、手入れをする者がいないというのは、
この園林に生える植物たちにとっては、あまり歓迎されたことではなかった。
この国の新しい主である陽子のように、自然のままであったほうが気が落ち着くという、
そういう人間であればまた別かもしれないが、
常世は、計算された美を持って美しい園林とされるのだ。
呀峰が金波宮へと護送されてから半月ほどたった時、
執務室から見える園林が十分荒れていたことは間違いない。
空は、下草を抜き、落ち葉を掃いて過ごした。
誰にもとがめられなかったし、とがめるはずの官吏は、日ごとに少なくなっていた。
さずがにまかないや厨房の下男下女はすべてを罷免したりすることはなかったようで、
少ないながらも機能していた。
空は、水くみや火おこしなど、自然に手伝い、まるで昔から務めていたかのようにふるまっていた。
呀峰の強い命は、呀峰がいなくなった今もまだ消えておらず、
下働きの者たちは一切私語をしないので、空について不信を抱く者も、
下働きをする者の中にはいなかった。
「空冷」という名の呀峰の愛妾はいなくなってしまったが、
空はごく自然にこの州城に溶け込んでいた。
|