「柴望様、お逃げください!」
駆け込んできた元麦州兵は、そう叫んだ。
「どうしたのだ?」
尋問を遮られた形になった若い夏官は、多少憤りながらも様子を尋ねた。
「この州城に、禁軍だけでなくわれわれ元麦州軍も入り込んでいることがばれたようです」
「なんだと!?」
柴望も驚いたように後ろをうかがった。
和州師と麦州師は、少なからぬ因縁があった。州境で接している州同士は、
よほどうまく付き合わない限り、敵対関係になるのは昔からだ。
利害を直接受けるからであろう。まして、州侯が呀峰と浩瀚のふたり。
同じなのは「したたかさ」ぐらいであろうか。その性格から物腰、政の行い方など、
ことごとく違っていたので、何かと争いごとになっていたのだ。
ことに、浩瀚が現主上である陽子に罷免されたあたりから、
和州の麦州に対する批判が高まっていたのは言うまでもないことだった。
問題は、この争いが雲の上だけではおさまらず、特に和州のほうでは、
下級兵にまで麦州に目に物見せてくれるという空気が充満していたようだ。
とはいえ、そう言ったことを配慮して、ほとんどの軍は、和州と麦州、
いや元麦州というべきだろう。遠く離れた場所で休みを取っていたので、
けんかや小競り合いが始まるというわけではなかった。柴望たちだけが、
夏官より密命を受け、禁軍になり済まして入り込んでいたのである。
このことが、和州側にゆがんだ形で伝わったらしい。
呀峰様の後宮に土足で入り込んでいるなどという汚名を着せられていたらしいから、
柴望たちはそれを知って、あとで苦笑するしかなかったようだ。
だが、今はそんなことは言っていられない。
「夏官殿、どうやらあとはあなたにお任せするしかないようだ。
申し訳ないが、われらはこれで退散する。あなたも、我々とかかわっていたことは、
和州城内では言わないほうが良いかもしれない。主上からの書状はお持ちか」
「これに、持参してきた」
将軍から人を任された時に渡されたものだった。正式なものではないが、主上の署名がしてある。
「では、ごめん」
あっという間に、その場から居なくなった麦州の兵たちを見て、
夏官は目をみはったが、空は、この騒ぎを冷静に見ていた。
いや、常人には聞こえない声や足音、服の触れ合う音などからその様子を想像していたのだ。
麦州師たちは、表に回った。こともあろうに自分たちがのした和州軍の兵を戸板に乗せ、
救護の兵を探しているふりをして、あとから来た和州師をやり過ごし、
堂々と出て行ったことを、空は周りの情報から確信していた。
「知略の麦州、なるほど。呀峰が手を焼くわけだ」
平伏をしているその下で、口端をあげ、納得したように笑む。
そこになだれ込んできた和州師が何か言う前に、夏官は声を張り上げた。
「和州師の方々、かたじけない。これが主上からの書状である。
どなたか、固継の閭胥遠甫という方が、いらっしゃるのをご存じではないか?」
それを聞いて、きちんとした命令を受けてきたわけでは無い和州師の乱暴者たちは、
息をそがれてしまった。兵よりは、仙籍を賜っている夏官のほうが、
どう考えても身分は上である。ここで、夏官は和州師に護衛され、その先の探索を行うことになった。
このあと、遠甫が無事に助け出され、陽子のもとへ禁軍の中でもえり抜きの
馬車で尋ねたことは言うまでもないことだ。
このあと、後宮も解放され、姫たちは、それぞれ望みの場所に変えることを許された。
ところが、空冷というきれいな娘だけはどこにもいなかったということである。
和州城の人間が知らない間にどこかへ行ってしまったのか?
本当のところは、誰にもわからず終わってしまった。
はて、空の話はこれでおしまいなのか?
とんでもない、ここまでが事前の話である。
空が、常世で何を見るのか? 何を感じるのか? もう少しお付き合いいただきたい。
|