海客の寵姫



 柴望と夏官は四本目の回廊を渡っていた。
 柴望たちは、呀峰の後宮にいる娘たちは、事情のある女が多いと感じていた。  ふつうは、その主の好みに応じた容姿や性格をした娘たちがいるものだが、 ここはまるで州政の縮図のようだった。しかも、呀峰の政敵に当たる関係者が多い。 外に出ないように軟禁しているだけではなく、後宮の女として肉体的にも精神的にも 呀峰の欲望のままに扱われていたようだから、主の趣味は良いとはいえない、 と柴望は思っていた。

「今度の女はどんな理由で囲われているのか?」

彼がそんな独り言をつぶやいていたそのころ、回廊の端にある四番目の宮では、 空(ソラ)が禁軍を迎える準備を整え、待っているところだった。

 空は、一昨日の夜、呀峰から禁軍の兵をもてなすように命じられてから、 何の指示も来ないのでいぶかしく思っていた。そこで、何か指針になるような情報はないかと、 いつも様子を見ていた州城の後宮に当たる場所全体を探索してみたが、成果は得られなかった。 喧騒な雰囲気だった執務室の近辺も静かなものだ。
 空は片言ぐらいならば常世の話もわかるのだが、回廊を行き来するものはただの下官が多く、 皆忙しそうにして話などしていないため、反乱軍がどうなったのか、鎮圧されたのか、 まだ戦っているのか、よくわからなかった。
 また、彼女は、呀峰の語っていたことの中に、「雲海の下にも、私が許せば下ろしてやる こともできる」というような内容があったことを思い出した。空には理解しがたいことだったが、 どうやらこの世界では、「雲海」と呼ばれる雲に似た境界線があり、その上と下では、 簡単には行き来できないようになっているのだ。雲海の下へ行く時に通る門のすぐ前にも行って はみたが、ここの警備は厳しく、さすがの空でも簡単には抜けることができなかったのだ。 いろいろやってみたが、結局下で何があったのかは空にはわからなかった。
 最も、空はわからないからと言って、いらいらしたりする「心」は持ち合わせていなかった。 ただ、空は、呀峰に命じられた禁軍への「もてなし」が夜になるのかそうでないのかで、 自分のとるべきもてなしの内容が変わってくるだろうと考えていたのだ。
 夜通し相手をするとなれば、遊女のまねごともしなくてはならないだろう。そうでなければ、 いつものように酒の相手をしていれば事は済む。どちらにしても、「仙」という立場の人間が 来ることが多いので、注意していたかった。
 そんな空にとって、情報を早く仕入れることは、生きていく上で重要なことだった。

 しかし、昨夜は誰も来ないし、何事もなかった。そこで、空はごく普通の支度をして、 今日は来るかもしれない「客」を待つことにしたのだ。
 呀峰より賜った冬の襦裙を身に着け、薄く化粧をした。
 六花模様のやや青みを帯びた白の襦裙は、暖かな材質で作られていた。おそらく日本でいう ところの絹に何か毛糸のような羊毛を縫いこんでいったような、凝った作柄の襦裙だった。 この襦裙は、いくらか濃いめの肌色を合わせるとよく似合う。もともとは色白の空だったが、 少しおしろいには色を混ぜて、他の化粧ははっきりした色を使い目鼻立ちを整える。こうすると、 かなり美人の範疇にはまる自分の顔ができるのだ。

 呀峰は、空を自分の後宮に入れたすぐ後、空の望む高価で華美な化粧道具をそろえてやった。 空にとって、化粧は制服と同じで、自分をどのような人間に見せるか、その目的を達成するために 必要な道具だった。彼女には大いなる武器であったが、呀峰は、一人さみしい海客の女が、 自分に頼るために「おんな」を磨こうとしていると勝手に思い込み、簡単に与えてやった。 もちろん、呀峰がそう思い込むように仕向けたのは空の誘導だったのであろう。 空は、自分の持ち物など一つもなかったが、こうして必要なものを取りそろえることは得意だった。
 ただ、物はあくまでも「物」だ。目的を達成するための道具なのだ。 空は、それらに執着するふりはできるが、執着する心は持っていなかった。

 そんな空が、どうやら禁軍らしき者たちがやってくる気配を感じたのが、つい先ほどだった。


 柴望は夏官とともに、四番目の宮の門をくぐった。今までの宮に比べてひっそりとしていた。 先ほどまでの三つの宮は、取次の下官がいたのだが、ここにはそんな者もいなかった。

「ほんとうに、女がいるんですか?」

柴望についてきた麦州の兵たちは、小声でいぶかしがったが、門をくぐると小さな庭に 一人で平伏している者がいる。

「○●◇$、麦州×##&&、▽**兵★◎■」

柴望が、声をかけたが平伏している娘は動こうとしない。空にとっては複雑な表現だったのだ。 柴望は仙籍を外されているので、空には理解不能の言語となって耳に入るのだ。
 柴望は、娘は何か理由があって話したがらないのだろうと思い、夏官と顔を見合わせた。 お互いにうなずくと、今度は夏官が声をかけた。

「面をあげなさい」

 空は、ゆっくりと顔を上げた。後ろで麦州兵たちは息をのんだ。非常に美しい娘だったからだ。 凛とした中にあどけなさが残る、はっきりとした目鼻立ちで、穏やかさを持つ、不思議な美しさだった。

 夏官と柴望は、この娘がおそらく呀峰の現在の寵姫ではないかと、小声で確認しあった。

「名はなんと申す?」

柴望が声をかける。このぐらいは空も理解できる。

「はい。ワタクシは、空玲ト、申しマス」

この、答えを聞いて夏官以外のその場にいる男たちは、顔をひねった。不思議な発音だったからだ。 聞いたこともない抑揚で、妙なところで引っかかる感じがする。

「そなた、もしや話すことができないのか?」

さらに、柴望は尋ねてみた。空は、どうやら自分の言葉が不自由であることを言われたのだと理解して、

「ハい。ワタクしは、海客デゴザいまス」

と、答えその場にもう一度伏礼して見せた。

「「「なんだと!」」」

これには、その場にいた一同びっくりしてしまった。慶は海客に対して優遇している国では無い。 海客であれば言葉がわからないのも無理はない。

「夏官殿、ここは仙であるあなたに尋問していただくのが良いのではないかと存じますが?」
「柴望殿、かたじけない。では、私が聞いてみるとしよう」
「ぜひ、お願いいたします」
「うむ。では女、お前に尋ねる。私の言うことはわかるか?」

空は、少し顔を上げると

「はい」

と返事をして、次の言葉を待った。

「そなたは、ここが呀峰の後宮だということを知っていたのか?」
「はい、存じておりました」
「では、呀峰との関係は?」
「大変お世話になっておりました」

それを聞いて、男たちは顔を見合わせる。このように美しい娘がいたのなら、 そのほかの娘たちが、人質のような待遇で集められたのも理解できると思った。 この娘は呀峰に愛されていたのかもしれない。そう感じていた。

「呀峰は、お前に乱暴を働いたりはしなかったか?」
「いえ、そういうことはございません」

そして、若い夏官は「エヘン」と咳払いをして、

「夜に床をともにしていたのか?」

と、多少聞きにくそうな顔をして尋ねた。それを見た空は、 答えにくそうに言ったほうが良いだろうと思い、顔を伏せて、

「はい」

と、小さな声で返事をした。

夏官は、柴望へ向きを変えると、

「柴望殿、もしかするとこの娘は、今までの娘たち以上に何も知らされて いないかもしれませんな。愛妾だったのではないでしょうか?」

柴望は、頷きながらも、呀峰という男は女にうつつを抜かすような人間には見えないと思い、

「夏官殿、この娘が呀峰以外にも知っている人間がいるかどうかおたずねいただけますか?」

と、頼んでみた。夏官は、承知した、と短く答え、また空のほうへ向きなおる。

「空玲とやら。そなた、呀峰以外の人間で知っている人間がおるか?  答えられるだけでよい。答えてみよ」

と、尋ねた。

「はい、でも、あの……」

今までよどみなく答えていた娘が、口ごもりだした。
 空としては、呀峰に禁軍をもてなせてと命じられてはいたが、そういった、 呀峰の政策にかかわる事実までしゃべってもよいとは言われていなかったので、 ためらって見せたほうが良いだろうと思ったのだ。なにしろ、この者たちが 禁軍であるかどうかもわからないのだ。わからないふりをしていたほうが良いかもしれない。 自分が海客であるということを呀峰から知らされていないということも、 素直に従うことへの懸念となった。

柴望は、夏官に、

「いかに海客といえども、われわれの立場をこの娘に説明していたほうが良いかもしれませんな」

と、進言した。夏官は静かに頷く。

「空玲、よく聞きなさい。私は、この国の国官で夏官という役職に就いている。 いわば、国の役人だ。和州侯呀峰は、その政策にいろいろ不備の疑いがあり、 昨日首都へ護送されていった。その、呀峰の行状を調べるために、 こうして州城内の人間に尋問している。今は、後宮を回っているところだ。 3人の姫を見舞い、今お前のところに来ている。 どうだ、知っていることは話してもらえないか?」

誠実な話し方だと、柴望は夏官を見て感心していた。 また、空も、呀峰のことが事実であれば、自分の今の立場も変わっていくことに気づいていた。

「おたずねしてもよろしいでしょうか?」

空が、おずおずとした様子で夏官に声をかけた。

「良いだろう。私で答えられることは、話すとしよう」

夏官はそう答えた。

「では、お尋ねいたします。呀峰様は、このあとどうなるのでしょうか?  近いうちに州城へお戻りになられるでしょうか?」
「うむ。正確には何とも言えないが、和州の現状を見ると、 無罪ということはないだろう。ここには二度と戻れないと思って間違いない」
「左様でございますか……」

空は、自分は一応後宮の女なので、途方に暮れたほうがいいだろうと思っていた。 この様子を見て、柴望も夏官も気の毒には思ったが、 今の自分たちでは如何こうすることができないことも事実だった。

「先ほどのお尋ねにお答えいたします。呀峰様のお客様をおもてなししたことが二度ほどございます」
「その者たちの名前を覚えてはいないか?」
「はい、お一方は。確か、昇紘殿と」

柴望が、確か止水郷の郷長がそんな名前だったと思い出していた。

「もう一方、こちらはお名前では無いと思います。たぶん、役職名ではないかと思いますが、牧伯殿と」
「なんだと! あ、いや、すまぬ。こちらのことだ。うむ、大変参考になった。ありがたい」

重要な証言が得られたと、夏官は大喜びしていた。柴望は、そんな若い官吏をみて微笑む。それから、

「夏官殿、申し訳ないが固継の閭胥遠甫という人物についてもお尋ねいただけるか?」

そう言った。夏官は、はっとしたように柴望を見ると、頭をかきながら、すまない、とわびた。 どうやら、空の言ったことが呀峰の罪状を明らかにする上での大きな証言になると思い、 有頂天になってしまったようだ。本来の訪問目的を忘れてしまったのだろう。 赤くなったり青くなったりする若い夏官を見て、柴望は苦笑していた。

「空玲、もうひとつ、大事なことを尋ねる。固継という里の閭胥をしていた遠甫という人物を知らないか?」
「固継の閭胥、遠甫、殿?」
「そうだ」

どこかで聞いたことがある、空はそう思った。

「その方は、どんな方でございますか?」
「それは、柴望殿に聞いてみよう。柴望殿?」

柴望は、遠甫の様子を伝えた。見た目はかなり高齢の男で、身の丈は低いほう、 どちらかといえば痩せており、髪は白く、同じく白いひげを顎に湛えている。 ふだんは優しい穏やかな老人だが、不屈の精神を持っている。気力や知力では 若い者に引けを取らない。少し前は私塾の塾長を助けたりしていたこともある。 そんな話をした。
 夏官はかなり丁寧に空に伝えた。

 一方空は、呀峰の執務室にいた老人のことだと気がついた。今ここにいる彼らに、 自分がこっそり執務室にいたことを知らせる必要はないが、どうやらこの人たちは、 その老人を助けに来たらしい。覚えていることは伝えてもいいのではないかと、 空は判断した。このように、自分のすることを自分で判断するのは、 空にとっては珍しいことだった。日本にいるときは絶対になかったことだ。

「おぼろげに覚えていることがございます」

空がそう言ったことに、夏官はびっくりした。

「こちらの後宮には、簡単には入ることのできない宮があるようでございます。 私も、こちらに来てすぐはそういうところに住んでおりました」
「ふむ、それでそこへはどうやったら行けるのか知っているか?」
「いえ、良くわかりません。その遠甫という方は、『第三の出島』 と呼ばれているところにいらっしゃると思います。どうやって行くのかはわかりませんが、 呀峰様の下官の方々にはいく方法をご存知の方がいらっしゃると思われます」
「そちがいたところ、どんなところか、わかる範囲で話してもらえないか?」
「はい。私が住んでおりました所が『第三の出島』かどうかはわかりませんが、 崖の途中に平らな場所があり、そこに家を建て庭を造ったような場所でございます。 家の後ろも前も崖になっており、あまりにも険しく、 上ったり下りたりすることは通常ではできない場所でございました」
「食べるものはどうしたのだ? 誰か剛の者が崖伝いに持ってきたのか?」
「いえ、下官の方が用意してくださいましたが、いつも忽然と姿を御隠しになるので、 どこからいらっしゃるのかさっぱりわかりませんでした」

夏官は柴望に、空の言ったことを伝えていた。柴望は、

「夏官殿、これはおそらく和州の凌雲山に呀峰が作った軟禁するための牢でしょう。 入り口には呪がかかっているのではないでしょうか?」
「きっとそうですね。これで、呀峰の内務を担当していた下官に尋ねれば、 すぐにわかるのではないでしょうか」

柴望と従ってきた麦州兵及び夏官は、これで遠甫を見つけることができると確信した。

 そんな様子を見ながら、空はこれまでとは政局が変わっていくことを予感した。 呀峰がひどいことをやっていたのは薄々感じていたのだが、 それが覆されるとは思っていなかった。
 ただ、生きていくだけならば空にとっては容易いことだが、 とりあえず、どのように動いたらよいか考える必要があった。

 ふと、空の様子に気づいた柴望は、思わず、

「そなた、これからどうするのだ?」

と、直接尋ねていた。空は、なんとなく意味がわかったので、

「ホカノ、方は、どうサレルノでしょうカ?」

そう、問い返した。

「他の姫たちはおそらく家に帰されるのではないだろうか?」

といって、夏官の顔を見た。

「ああ、おそらくはそのような措置が取られるでしょうな。 どちらにしても新しい州侯が決まってから、改めて指示が出されると思われます」

そう言いながら、夏官は空玲があまり悲しそうな顔をしていないのが気になった。 この娘がたぶん寵姫だったのだろう。他の女たちはともかく、 この娘は呀峰が帰ってこなかったら悲しむのではないかとも思ったのだが?  あらためて尋ねてみた。

「空玲、呀峰が帰らないので寂しいか?」
「いえ」
「なぜだ?」
「愛していたわけではございませんので」
「そうか……」

男と女はそれほど単純ではないのかもしれないなどと、夏官は思った。

その時だ。後ろを守っていた麦州兵が騒然として門を閉め、庭に転がり込んできた。