風遊ぶ刹那の香り




執務室にて
 赤楽始まってすぐのころ、夏の暑さが盛んになり、影を作ればそこに涼やかな風と園庭から濃い樹木の香りが漂う、 そんな午後のある日であった。

 浩瀚は、下官の招きを受け景王の執務室に入って行った。 そこには、官服の袖をまくり、勇ましくも白い紐をたすき掛けにして、 剣ならぬペン、いや筆を持ち署名をするのに格闘しているいつもの主上の姿があった。

「ああ、浩瀚か。すまない、ちょっと待ってくれ」

こちらにしばし目を向け、にこりと笑いながらそういうと、 一度止まった手の動きをもう一度最初から行うように、気合を入れ直して景王は書面に向かった。

 執務室の窓は大きく開けられていた。南から西にかけて作られた窓には、黒くてあらい目の布が表に張り出されていて、 まさに今の季節である真夏に、日光は遮るが雲海から吹く涼やかな風は、執務室に入るようにと工夫されている。 ここに勤める小者達の心遣いを感じながら、浩瀚は景王を見守る。

 彼は言うまでもなく、現景王が納める朝の執政最高責任者、「冢宰」を務めている。

 今の景王は、前冢宰の黒い部分の懐刀であった郷長を、民草と共に引きずりおろしたのだ。 かつて拓峰という場所でおきた反乱分子の中に現景王もいて、その郷長の一派と戦い、見事勝ちを納めた。 それはなかなかに大事件だ。郷長に連なる州侯と、 一番の黒幕である前冢宰を罪人としてとらえることができた事件でもあったのだから。
 ある意味、彼女は厄介な経歴を持っているといえるのだ。

 前冢宰と利害を共にしていた官吏もまだたくさんいる金波宮で、 陽子のそばに誰を置くかは、浩瀚としては最も思案をさせられたところだ。

 その、浩瀚の目にかなった小者達が行った、主上に良かれと思う所業が、 こうして部屋の涼をとる場面においても明らかとなっているのを見るのは、 彼にとっても少なからず心地よいものである。

「さて、一段落したぞ? 浩瀚、何か用か?」

『ま、用が無ければわざわざ冢宰府からこんなところまで来る暇は無いよな。 なにしろ、国中で一番忙しいのだから』と、口の中でぶつぶつ言っている陽子を見て、浩瀚は微笑む。

「はい、一つ良いご報告を持って参りました」

「そうか、ぜひ聞きたい。どうしたんだ?」

「主上が今年の春に都市の整備を優先させるようにと判断された夫役のことでございます」

そう言って、浩瀚は巧国から帰ってくる慶国の民を巧のすぐ隣、 紀州などでは無く瑛州で受け入れていることの様子を語りだした。

 難民を瑛州で受ける代わりに、紀州などでは州軍を中心に、逃げてくる民人を追って慶国に入ってくる妖魔を食い止めたり、 難民にまぎれて強盗や追剥を行うならずものを取り締まったりという働きをしてもらう。 分担をすることで瑛州軍も禁軍もうまく仕事が回ったらしいということ。 少ない予算の中から、馬車や警固のための人員を割き、全部とは言えないが瑛州の各所に仮の土地を設け、 耕してもらっている間に文書整理を急ぎ、希望があれば別の州に配地換えをするなど、 手続きを行っていること。なんだかんだと言っても、地方よりは金波宮を抱くこの瑛州堯天が、 一番官吏の人数が多く、事務手続きがやりやすいということ。

 浩瀚は滑るような語り口で説明していった。

「そうか、それは良かった。しかし、結局お前の仕事が増えたのではないか?」

にやりと意地悪そうに笑う景王が、浩瀚には年相応の少女に見えた。 最も、この時の景王はそこそこ見た目と実年齢は一致していたのだが。

「そうかもしれません。しかし、地官府も禁軍も良く働いてくださるので、 それほど大変ではございません。やりがいのある仕事だと感じておりますが」

まっすぐに笑う浩瀚の顔を見て陽子は今度は心から微笑んだ。

「ところで浩瀚、雲海の上とはいえ、今日は暑いな」

「左様でございますね。しかし、主上の執務室は窓の外側から黒い布がひさしのように突き出てかけてあり、 強い日差しが遮られ、他の場所に比べ涼やかかと存じますが」

「ああ、下男達が苦労して作ってくれたんだ。彼らには本当に感謝しているよ」

「それは、ようございました」

――今の主上は本当に、良いことは良いと素直に物事をご覧になる、有難いことだ――

浩瀚は、景王の物言いに幸福を感じた。 朝の始まりの時に、元冢宰の政敵とされ処刑されかかったのだが、 最後まで主上を信じて良かったと今更のように思った。

「街の様子はどうだ? 何か変わったことは聞いていないか?」

「そうですね、堯天では雨が多く、民人が治水に力を入れたところでは豊作が見込まれております」

「ということは、治水をさぼったところは決壊して水浸しになったか?」

「そこまでひどくは無いようですが」

「そうか、あちらを立てればこちらが立たず、まあ、今の予算では仕方ないか」

がっくりと肩を落とす景王を瞳の中に入れながら、浩瀚は慈しむような微笑を口元に浮かべると黙って頭を下げた。

「それにしても、冢宰とはみな同じ事を言うんだな」

「と、申しますと?」

「うん、桜の咲く前だったから3月の初めかな?  夫役のことをどうするか私に聞きに来たことを覚えているか?」

「はい、その時主上は何か思い出し笑いをされていたようでしたが、 そのことと関係がございますか?」

「あれ、良く覚えているな。 そうなんだ、実を言うと登極してすぐの年にも、 冢宰に同じように尋ねられたのを思い出してさ」

「と、おっしゃいますと靖共に?」

「うん、その時は私にはわからなかったんだ。 都市の整備か、治水か、どちらにすればよいかがね。 もちろん、今だって分かっているわけじゃない。 でもどちらかの判断は私がしなくてはならない事は知っているよ。 その責任をとるのも私だということをね」

「そんなことがございましたか?」

「ああ。それで、靖共にお前に任せる、と言ってしまったのさ」

浩瀚は、暫し目を見張ったが、すぐに思い直した。 このお方は誠実であらせられるのだろう。 分からないからといっていい加減に返事をする事ができなかったのだ。

「台輔にはご相談されたのですか?」

「あのころは、景麒とはあまりうまくいってなくてね。浩瀚のことでもよく喧嘩をしたよ」

「それは、大変申し訳ありませんでした」

「いや、それはいいんだ。お前のせいじゃないよ。お互い言葉が足りなかったのさ、私も景麒もね」

そういうと、陽子は額の汗を思わず手でぬぐった。 それを見た浩瀚は、恐れながら、と口にしながら、懐からまだ新しい手巾を取り出し、陽子の前にそっと差し出した。

「ありがとう」

びっくりしたように大きく眼を見開いた陽子は、その緑色の瞳を柔らかく細め、微笑んだ。

――主上のこのようなお姿を拝見できるだけでも、私は冢宰になって良かったと感じているのでございますよ――

浩瀚は、心の中でそうつぶやいた。

少し冷たい風が、執務室に入ってきて景王の赤い髪を揺らす。一瞬、夏の香りがした。


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