その27



 一度この不思議な海の中に入ったことがあったので、YOOKOにはそれほど不安はなかった。 この青い液体とも気体ともつかない不思議な感触のする物質の中、を静かに下方に移動する。 そう、沈んでいくと表現しても間違いではないだろう。

 やがて、その動きは止まる。さりとて、底があるわけではないのだ。 ただ、もっと深い青が、下のほうに広がっているだけ。
「YOOKO?」
穏やかな意識がYOOKOの頭の中に広がった。問いかけられている。
「ああ、こんにちは。……星(ホシ)?さん??」
ちょっとだけ沈黙。静かな青。
「ハイ、ソウデス」
YOOKOは、心なしか、以前話をしたときより意思の疎通がスムーズになったような気がした。

「今日は、あなたとお話がしたかった」
YOOKOは、どこに視点を定めてよいかわからなかったので、とりあえず正面を向いたまま話し出した。
「ソウデスネ。ワタシモ アナタト ハナシガ シタカッタ。YOOKO?」
明確な意思が、YOOKOの頭に入ってくる。自分の名前をCOOCAN以外の人物、いや生命体から、 直接呼ばれるのは本当に久しぶりだったからだ。

 黄昏星では、ほとんどの会話は機械を通して行われる。 宇宙船の中では、YOOKOとCOOCANは直接話をしていたが、それはふるさとの星ではめったにないことだった。 触れ合うことを禁じられていたため、体を完全に覆う服を着用し、 通信はマイクを通して機械的に行われていたからだ。もちろん、機械文明も発達していたので、 ほとんど生の声と同じような状態で聞こえているはずなのだから、あまり支障があったわけではない。 しかし、YOOKOやCOOCANのように妙に感性が鋭い人間には、機械を通した音にはぬぐいきれない違和感が残ったのだ。
 だからこそ、YOOKOやCOOCANは触れ合わないように服を着て手袋ははめているが、 外に出るとき意外はお互いに直接話をしていた。

「名前を、覚えてくれていて私はうれしい! ありがとう、ええっと、ホシさん?」
なんだか呼びにくいなあ、と思いながら相手のことを思う。姿かたちもなければ、名前もないのだろうか?
 すると、そんな思いが相手に伝わったらしい。
「ナニカ キニナルコトガ アリマスカ?」
そう、尋ねられてしまった。YOOKOは、自分自身が納得できていないことが、 表情やしぐさに出ていて、それが伝わってしまうのだろうと思った。かなり高度に文明が発達した星なのだろう。 でなければ、こちらの微妙な思いが相手に伝わることなど考えられないからだ。 もしかしたら、自分たちと近い種類の生物なのかもしれない。そうだといいのだが。 とにかく、YOOKOは、この際、疑問に思うことはみんな聞いてしまおうと思った。

「私には、あなたの姿が見えないのですが、それは我々の視力では見ることのできない体を持っているからですか?  それから、やはりホシさんは、呼びにくいです。できれば何か名前を呼ばせてほしいです」
「ソウデスネ……」
肯定の意思は感じられるが、返答はすぐには帰ってこない。こちらの星では、難しい概念だったのだろうか?  黄昏星では当たり前に存在した「海」の概念も、この星では難しいらしいから、説明に時間がかかるのだろう。
「YOOKOタチハ、ソノ スガタヲ スコシズツ カエルコトデ、コミュニケーションヲトリヤスク  シテイル ヨウデスネ。デハ、コンナ フウニ シマショウカ」

 YOOKOの正面に、濃い青色の液体が集まってくる。 YOOKOの足の下にも濃い色の青い液体が永遠に続いているように見えるのだが、 それとは少し違う青さだ。少し明るい濃い青。碧い色が、まるでしみが広がっていくように増えていく。 やがて、それが人型を採った。YOOKOよりも少し背が低い。女性型をしている。 自然に年をとっていったとすれば、中年というところか?  しかし、液体でできているのは確からしく、のっぺりしていて年齢不詳だ。

碧い色の瞼が開く。

「コレデハ イカガ?」
相変わらず頭の中に直接響いてくる。その碧い人は、笑顔のような形を作っているが、 表情は読むことができない。その口は開かないので、やはりテレパシーなのだろう。
「ああ、ありがとう。なんだか話す相手の人がいるとやっぱり安心します」
「ソレハ ヨカッタ。デハ ナマエデスガ YOOKOニ カンガエテ モライタイデス」
「え? あなたは本当に名前がないんですか?」
「ハイ ソウイウ ガイネンハ ナカッタノデ ナマエモ ナイノデス」
――他人との識別は、番号か何かで代用していたのだろうか? 意外に、超効率化した世界なのかもしれないな。――
YOOKOはこれ以上その件で質問するのはやめようと思った。
「では、こういうのはいかがでしょう? 私たちは、この星にはじめて来た時に、 私たちの第二のふるさととしての出発の星にしようと思ったのです。 ですから、夜明けの意味をこめて、『暁星』と呼ぶことにしました。その星の代表ということで、 『暁美』(AKEMI)さんではいかがでしょう?」
「アカツキハ ヨアケ? ミ トハ?」
「美しいという意味です」
「ウツクシイ……」
これも、難しいことだったのだろうか? YOOKOは、AKEMIの次の言葉が出てこないので心配してしまった。
「イエ ヨイ イミノ ヨウデス。ウレシイデス」
――そうだよね。うれしいとかそういうことは大丈夫そうだったから、美しいでもわかると思ったのだけど。 まあ、でもこんなに意思疎通ができるなんて思っても見なかったから、まったく問題ないよね――
YOOKOは、表情を和ませる。
「デハ ワタシモ キイテ ヨイデスカ?」
AKEMIは、今度はYOOKOに向かってその碧い目をしっかりと向けてきた。その碧い唇も少し動かしているようだ。
「アナタノ パートナーハ イナイノデスカ?」
YOOKOは少し目を見開く。そういえば、今度来るときはパートナーも一緒にと、AKEMIが言っていたことを思い出した。
「今、ここには来ていません。申し訳ない、今度一緒に来ると言ったのに」
「ドコデ ナニヲ シテイルノ デスカ?」
「ええ、彼はCOOCANという名前です。彼は今、この星の生物がたくさんすんでいる島にいます。 そこに簡易観測所を作りました。今は、簡単な実験はそこでできるようにしています」
「アア、アソコニ イルノデシタネ」
不思議と安心感が伝わる。
「それと、この星には水……ええと水素と酸素の化合物で常温では液体の形態をとる物質が見当たらないんです」
「……?」
――まさか水を説明することになるとは思わなかった。 物質的には黄昏星となんら変わらないような気がするのだけれど。 元素が根本から違っていたりはしないよね――
YOOKOは少し不安になった。
「アア H2O ノ コトデスネ」
「はい! そうです!! よくご存知ですね」
YOOKOはびっくりすると同時に、ほっと胸をなでおろす。同じ元素を表す言葉だ。 よかった、やはり宇宙は広くても基本的な事柄は変わらないんだ。彼女はそう思った。
「ソウデスネ ヒツヨウガ アレバ ヒョウシュツ サセマショウ」
「表出したりできるのですか?」
「ハイ アノ シマデ ヨイデスネ」
「ええ、もちろんかまいませんけど……」
「ホカニ ナニカ タリナイモノガ アッタラ オシエテクダサイ。ヨウイ デキルカモ シレマセン」
「はい、ありがとうございます」
「コンドハ COOCANモ ツレテキテ クダサイ」
“表出”という表現に、いささか疑問を感じたYOOKOだったが、好意的な暁星の人には感謝しなくてはならない。
「わかりました。もう少し実験が進んで、報告できるようになったら、必ず来ます」
「デハ マタ オアイシマショウ YOOKO!」
「はいAKEMI!」

ふわりと体が浮かんだように感じた。次の瞬間、YOOKOはあの白い砂浜にたたずんでいた。