その26



   Welcomeに乗り込んで、しばらく暁星の空を飛ぶ。 YOOKOは久しぶりに空中に出て、解放された気分になった。 ホバーリングするWelcomeもそんな陽子の心に影響されてか、 小さく弧を描くように飛んでみたり、広々とした青い海原に急降下したりと、 ゆっくりとしたスピードだったが、 遊園地のジェットコースター並みにアクロバット飛行を楽しんでいた。

「あはは、Welcome! やめてよ、ひっくり返っちゃう!」
「だから、セーフティチェアから出ないで下さいと言ったじゃないですか」
「そんなこと言ったって、ひゃあああ……」

YOOKOが着席しているWelcomeの座席は、 ゆるやかに形を変えることができる形体記憶プラスチックスでできていた。 着席している人の姿勢や宇宙船の飛行に合わせて、 快適かつ安全に変化してくれるというすぐれものだ。 黄昏星の人々が、宇宙へ向かって冒険に出て行き始めたころ盛んに開発されていたものだった。 しかし、COOCANやYOOKOが生まれたころには、その技術はむしろ後退していた。 終焉に向かう人類には、冒険心は不必要になったらしい。 黄昏星だけで、何もかも完結できるだけの富と技術を持った人類は、 もう外に出る必要がなくなってしまったのだろう。 人類全体の心が、何か病んでいくとしか思えないような星になってしまったのだ。

Welcomeに乗ったYOOKOは、あっという間に、波打ち際の白い砂浜に着地した。

「YOOKO、注意してください。俺は海中には潜れないんですよ」
「あれ? そうだったっけ??」
「そうですよ!」
「COOCANにしては、珍しく手落ちなんじゃないの」

上目づかいに口端を上げる。YOOKOはチャーミングだ。

「おっと、YOOKO、その顔COOCAN様に見せたら、イチコロですよ!」
「イチコロ?? 何それ?」
「あれ、この間の学習セットに入っていませんでしたか? ほらレトロ趣味の方が使う昔の言葉ですよ」
「どういう意味だっけ?」
「えーーーーと、で、す、ねぇ……」

Welcomeは言葉を濁す。

「え? 何?? もしかしてまた何か妙な知識なの?」
「や、いやあ、そんなことないですよ! はい!!」
「何だ? Welcome、怪しいよぉ〜」

YOOKOは、モニターのスピーカーにあたる場所に向かって、顔を近づけた。

 黄昏星では、男女の色恋感情は希薄になっていた。 それはもちろん、性の営みからでは子供が生まれなくなってしまったからだ。 黄昏星の人類は、大いなる科学力を持って、それを自ら捨てたのだ。そのせいで、 いや、成果と言ってよいだろう。 人類はあらゆる争いごとから解放されたといってもよいのだから。 醜く肥大した科学力によって、一瞬で人類が滅びることは、ほぼ永遠に回避されたのだ。

 その結果、遺伝子学がさらに飛躍的に進んで、 人類はその遺伝子が持っている形であれば、どんな形にもなることができるようになった。 肌の色や、目の色など、外見で差別されることはなくなった。 ちょっとした装置や薬品を使えば、簡単に変えることができるようになったからだ。 細菌はもとより、遺伝子やウイルスに関する病気も無くなった。 本来人類の持つ再生力が更に進化したため、怪我による死もほとんどなくなった。 さらに、老いることも、生まれつきの障害も、無くなってしまったのだ。
 この辺りまでは、黄昏星でも穏やかな恋愛感情は残っていて、 男性型と女性型の人同士が、ふたりで恋愛感情を育て、婚姻し、 お互いの遺伝子を交換して、子孫を作ることが可能だった。
 それが、いつのまにか崩壊していったのだ。触れ合うと、溶けてしまう。
 原因は、いまだにわからない。新種のウイルスか? 遺伝子をいじりすぎた、 種としての終焉なのか? また、それらの要素が複合的に絡まってしまったのか?   とにかく、YOOKOやCOOCANが生まれた時代までは、まだ、溶けてしまうのは人同士に限られていた。 今はもう黄昏星からはるかかなたに来ているので、どうなっているかわからない。 ひょっとしたら、他の生物と触れ合っても溶けてしまうような事件が起きているかもしれない。

 そんな黄昏星の社会でも、「恋愛」と「野合」はバーチャルゲームとしてしばらくは残っていた。 触れ合うことができなくなった社会で、一時は大変に普及したが、このゲームをプレイすることによって、 バーチャルでは飽き足らず、現実での触れ合いを求め、溶けてしまう事件が多発して、 ほどなく禁止されてしまったのだ。データは永久に破棄されたはずだったが、 どこかに残っていたのだろう。法の目をくぐり、細々と生き続けた。 それが、レトロ趣味の愛好家たちに発掘され、一部でまたもてはやされていた。

 YOOKOは、違法な事にはあまり興味を持たなかったが、 COOCANはそれらも一定の知識として収集していたようだ。 現在では使われていない言葉も、そのゲームでは解説付きで使われている。 「イチコロ」はそう言った言葉の一つだった。Welcomeが知っているのは、 COOCANが自動学習プログラムを組み込んでいたせいだろう。
 Welcomeの人工頭脳の傾向として、そういった知識を収集しやすい環境にあったのだ。

「あれ? Welcome、口ごもってるよ? 人工頭脳が口ごもるって変なの!  でも、私はそういうWelcomeが大好きだよ」
「い、いやその…… YOOKO、只今目的地の砂浜に到着しました! ではどうぞ! お気をつけて!!」

そういう声がモニターから聞こえたかと思うと、 バウンとWelcomeがホバーリングを解いて、着陸した感じが伝わってくる。 と、同時にYOOKOは椅子からも解放された。

 YOOKOは自分のスーツを今一度確認して、面に出る。通信機器もオールOKだ。 砂浜へ足を下ろし、波打ち際へと進んだ。

 思えば、外洋と砂浜を隔てるものなど何も無いのに、恐ろしく静かな波しかないのは、 どう考えても変だった。相変わらず雲ひとつない青い空だ。YOOKOは、海と砂の境目に腰を下ろすと、 薄い手袋をはめている手を、その海に浸そうと手を伸ばした。 すると、海面は一瞬躊躇したかのように、YOOKOの手から離れて、すぐに思いとどまり、 その手を包んだ。暖かい海水が、YOOKOの手をやさしくなでているようだった。
 真っ白な砂粒が、その波の中を行ったり来たりしている様子が見える。 この海は、遠浅なんだろうか? 次第に深くなっているのだろうか? それとも黄昏星のように、 何メートルか進むと、急に深くなっていたりするのだろうか?
 海底探査は、失敗続きだった。海中に探査器具を沈めることができないのだ。 肝心の海水がすくい取れないので、比重すら計れないでいたのだ。 この海に浮かぶことは可能だが、海中に沈むことができない。 YOOKOが波に取り込まれたことが唯一の例外だったといってもよいくらいだった。

「また、話ができるだろうか?」

YOOKOは、あの時の黄昏星の住人にまた会いたいと思った。

 するとどうだろう。海水がYOOKOの右手を伝ってするすると顔や体のほうへ伸びてきたのだ。 まるでアメーバか何かのように。不思議と恐怖はなかった。 やさしい気持ちがわいてくる。YOOKOは残った手で、アメーバのような海水に触れた。

「また、あの人と話ができるかな?」

そう言葉に出すと、

「もちろんです」

という明確な意思が伝わってきたような気がした。

 青い海がふわりと持ち上がると、前回の時のように、陽子を海中に引き込んだ。

「はあ、不思議な海だ。YOOKOはよく平気だな。一度もぐっているから、 不安がないのかもしれないけど。俺だったら、ごめんだな、 こんなわけのわからない海の中に潜るなんて」

Welcomeは、YOOKOからセンサーを外すことなく様子を記録していた。 不可解な海は、彼のようなアバウトなソフトをもつ人工頭脳にとっても、 認められない場所であり物体であったのだ。