花開く金色の碧野




「浩瀚様!」
回廊で大きな声が響く。
 今日は朝議が思いのほか速く終了したので、 急ぎの案件をまとめて直接陽子のところを訪ねようとしていた冢宰は、 ふと、その足を止めた。
「珍しいな、桓たい。そんなに大声を出して、いったいどうしたのだ?」
 桓たいは笑っていた。
 何時にも増して、さわやかな表情だった。
 その手には、何か緑色の細長い物を持っている。
「ご覧ください、浩瀚様」
うれしそうに、その緑を持ち上げ、浩瀚の目の前に掲げた。
「ほう、これは」
にっこり笑う浩瀚に、桓たいは気を良くして、口を開いた。
「冢宰に申し上げます」
「いかがいたしました? 左将軍」
「私もぜひ、主上の元へお供させていただきたいのですが」
「それはかたじけない。左将軍にご一緒いただければ、長い回廊も少しも不安はございません。 どうぞよろしくお願いいたします」
 型どおりの挨拶をわざとらしくかわし、 二人は肩を震わせてしばし声もなく笑うと、姿勢を正して進んでゆく。



 仁重殿との分岐で、珍しくも表情をほころばせた台輔と出会った。
 ふたりは、慶国で主上に次いで高貴な身分の景麒に道を開け、丁寧に拱手していた。
「これは、冢宰と左将軍」
と、声をかけたところで景麒は言葉を切り瞠目する。 姿勢を正して台輔を見た二人もはっとして、目を見開いた。 そして、3人は微笑んでいた。
 景麒がうれしそうに二人に話す。
「私たちは、同じ思いで主上の元をお尋ねしようとしていたのですね」
「誠に、今日は朝議が速く終了して幸いでした」
そう、浩瀚が続けると、桓たいも
「左様でございますね。午後にはもう閉じてしまうそうですから。見られるのは午前中だけですよ」
と、言葉をつないだ。
 回廊を渡り、内宮の入り口で謁見の希望を申し出ると、下官から、 「主上は、太師邸へお渡りでございます」
と教えられた。
「主上も、どうやら早く終わった朝議のあとを有意義にお過ごしのようでございますね」
浩瀚が誰かにと言うわけでもなく口を開くと、
「はい、主上は太師邸がたいそうお気に召したようでございます。 なんでも、固継の里家にたたずまいが似ているとか」
景麒が穏やかに続けた。
「桂桂殿がいらっしゃるからでしょう。 主上も一番気安くお声をおかけになることができる方のようですし」
と桓たいがにこにこしながら、「お気に召した」そのわけを付け加えた。



 太師の館では、セミが鳴いていた。
 この館では、金波宮の中では珍しく自然のままのように、草花が配置されている。 そのせいだろうか、小さな生き物も多いようだ。
 まだ、暑さは十分に残っており、午前中とはいえ、 幾分長く回廊を歩き回って、3人はのどの渇きを覚えていた。

 入り口で、声をかけるかかけないかの間に、内側から扉が開く。
「うわっ!ほんとだ!!あっと、いけない、ご挨拶が先ですね。 皆様、よくいらっしゃいました、どうぞこちらへ」
子供らしい、かわいらしい拱手をして、桂桂が3人を案内した。
「桂桂、元気かい?」
「はい!」
気さくに声をかけてくる桓たいに、明るく返事をする。
 家族がいなくなってしまった桂桂には、虎嘯はおとうさん、 桓たいは年の離れたお兄さんのような存在であった。
「どうして、俺たちがくるのがわかったんだ?」
「ええ、陽子が来ているのはご存知でしょ?」
小首をかしげた桂桂に、桓たいは軽くうなずいて肯定を示した。
「陽子についている班渠が、3人がこちらに向かってきますって、教えてくれたんです」
「はあ、なるほどね」
警護は完璧というわけか、納得して浩瀚と景麒のほうをうかがえば、二人とも微笑んでいる。
「お二人にはお見通しだったのですね」
少し考えれば、わかることだ。
 自分が手に持って陽子に見せようと、尭天から採ってきたものがうれしくて、 軍人としての勘がにぶったのか、一時の平和に酔ったのか、桓たいは苦笑した。

「お待ちしておりましたぞ」
 遠甫が3人を迎えて席を勧める。
 3人は陽子を見て少し目を開いた。
 先ほどの朝議での装い、黒の官服とは変わり、 薄い朱とも、濃い黄ともみえる祷に着替えていたからだ。
 裙は藍にすかし模様。
 粗い目で織ってあるものの上品で涼しげだ。
 陽子の髪は赤い。
そこにもっと深い赤の髪紐を持ってきて、高く括っていたので、翠の瞳が今日はいっそう澄んで見えた。

 その陽子の脇に、上品に跪礼したものがいた。

「柴望!」
「柴望様!!」
「和州侯!」
3人3様の呼び名で、驚きの感情と共に叫ばれた名前に、 ゆったりとした動きで姿勢をただし拱手した男は、久方ぶりに見る、柴望だった。
「皆さん、のどが渇いたでしょ。冷茶です、どうぞ」
桂桂が硝子の器に金色のお茶を注ぎ、振舞っていた。
 さっぱりとした喉越しに、それまでの政務の疲れが抜けていくような、よい香りだった。
「和州侯、少しやせられたのではありませんか?」
心配そうにたずねる景麒に、
「いえ、かえって身が軽くなりちょうどよいくらいでございます」
柴望は笑って答えた。
「政務がきびしいのだろう?」
浩瀚は問う。
「冢宰ほどではございません」
柴望が答える。
「危ない輩が多いとのうわさですが?」
と、桓たいがたずねれば、
「おぬしの紹介してくれた杖身はみな優秀で今のところ大事無い。」
と微笑んでいた。
 穏やかな、明郭の乱のころには考えられないくらい穏やかな、久しぶりの出会いであった。
「ところで、みんなそんなに急いでどうしたんだ。 柴望が騎獣に乗って、数人の供しか連れないで飛んできたからびっくりしたよ。」
陽子は慶国きっての重臣が5人も集まったのは、初勅以来だ、と笑っていた。
 柴望が、
「こちらを一刻も早くお見せしたくて」
と差し出したものは、先ほどから桓たいや景麒が持ってきたものと同じ、細長い草であった。
「私もでございます」
「我々も」
と、同じような草の束を差し出した。
 陽子は、いぶかしく思いながらも、その細い草の束をじっと見つめ、手にとって見た。 よく見ると、何本かの緑の茎に混じって、黄色い茎がひときわ太く自己主張している。 その先をたどって行った陽子は、はっ、と息を呑んだ。

「これは、もしかして……」
「はい」
浩瀚が静かにうなずいた。
「私は、生まれて初めて見た。稲の花……だね?」
「ご明察にございます」

「ほう、陽子ははじめてじゃったか」
遠甫は慈しむように景王をみる。

 かの少女王は、その実際の齢が二十歳に満たず、登極してからやっと2年目の秋であったのだ。
「主上は、昨年はごらんにならなかったんですか?」
桓たいが何気なくたずねると、
「ああ、国王になったばかりで右も左も分からなかったから。 冢宰は靖共が勤めていたし。稲の花が咲いたからといって、 喜ばしいことだと知らせてくれる者もいなかったよ」
と、陽子は寂しそうに答えた。
「お忙しくていらっしゃいました」
景麒がかばうように告げる。
「こちらが、和州、止水郷にて咲いた稲でございます。 革午殿が2,3日中には咲きそうだ、と知らせてきましたので、 人をやって見守らせておりました。 咲いたらすぐにお持ちしようと思っておりましたものですから」
「そうだったのか、柴望ありがとう。革午にも私が喜んでいたと伝えてほしい」
「かしこまりまして」

 和州、止水郷で起きた拓峰の乱は、陽子にとって最初の大きな試練であった。 この試練を乗り越え、拓峰でも、今年は秋に実りが期待できそうだ。
「こちらが、瑛州の稲の花でございます」
景麒が渡した穂にも、小さく白いおしべがいくつも丸い殻のようなエイから顔を出して揺れていた。
「荒廃がひどかった例年よりも、幾日か早いそうでございます。 そちらを管理しているものの話によりますと、 豊作が見込まれるのではないかということでございました」
「ほんとうか!それはよかった」
「まだ、実ってはおりませんが」
「お前、どうして喜んでいるのに水を差すかなぁ」
「本当のことにございます。これから大風が吹いたり大雨が降ったりして せっかく実った稲が台無しになることも……」
「台輔、大丈夫じゃよ」
遠甫が助け舟を出した。
「今年は陽子が毎日玉座に居る。きっと豊作じゃろう」
膨れてしまった陽子を見て、笑みをこらえながらも、桓たいは自分が持ってきた稲も差し出した。
「こちらが、堯天で咲いた稲の花です」
「えっ、ということは……?」
「はい、主上が荒民に勧めた田植えが間に合ったようでございます」
浩瀚が答えた。
 陽子は堯天に集まった荒民に、開墾をさせていた。
 きちんと区分けした田んぼではなかったが、無いよりはまし、 と半ば勅命に近い形で認めさせてしまった田んぼである。 田植えの時期としてはぎりぎりであったが、 今年は暑さが十分で雨も適当に降ったためか、どうやら開花に間に合ったようである。

「今日は、とてもうれしい」
陽子は顔をしっかりとあげて、しかし、とても穏やかに語る。

「なんだか、浩瀚はこの稲の花に似ているね」
「「「「はい?」」」」

その場にいる誰もが、いぶかしく思った。
 およそ花にたとえるなら、もっと美しい凛とした華やいだもののほうがよいのではないか。
 藤とか白百合とか花菖蒲とか、秋なら大輪の菊でもよいが……。
 少なくとも、桓たいと柴望はそんな風に思っていた。

   稲の花は、籾殻のようなエイとよばれるつつみから真っ白なおしべが顔をのぞかせている、ごくごく小さい花だ。
 花びらはない。
 見様によってはかわいい花であるが、およそ人をたとえるような種類のものではないと思われる。
浩瀚もさすがに不思議に感じたようで、陽子に尋ねた。

「主上、失礼ですが、どのあたりが私めに似ていると?」
「うん、この穂を守っている青い切っ先のとがったような葉は、桓たいなんだ」
なるほど、と男たちはうなずく。
「実った稲が金色にひかり、風に輝くのは、景麒なんだ」
確かに、実りきって頭をたれた稲が風に揺れるさまは、景麒の鬣に負けず劣らず美しいだろう。 豊かになっていく慶国を象徴しているようだ。
「それで、その稲を守り育てている人たちが遠甫や柴望なんだ」
ほう、と短いため息が漏れる。
「われわれは、よくよく周りを整えるよう知恵を出しませんと」
「まことに」
二人は微笑んだ。
「稲に花が咲く。そこから始まるんだ。 花がなければ、それはただの藁で終わってしまう。そりゃ、藁だって役に立つけど」
妙なところで貧乏性の陽子である。
「花が咲くからこそ、実りが約束される。 もちろん、さっき景麒が教えてくれたように、 この花がきちんと米になるまで守らなくてはいけないけどね」
そういって、景麒のほうを見ると、彼は穏やかにうなずいていた。

「だから、稲の花は、浩瀚なんだ」

そういって、陽子は顔を伏せた。
 いまひとつ、説明がよく分からない。
 男たち、特に浩瀚は、陽子をじっと見つめて次の言葉を待った。


「浩瀚、お前を冢宰にしたのは私だ」
 そう言われ、浩瀚の頭の中には思い出が矢のように走ったのだ。

 麦州侯であったときのことから、その地位を冤罪にて追われ、明郭で乱を起こしたこと。
 もとより自分の命など無いものとしていたにもかかわらず、万に一つの偶然で、 その乱がとてもよい形で終了し、金波宮に上がり、乱の首謀者とささやかれながら、 陽子から冢宰を拝命したときのこと。
 そこまでが一瞬のうちによぎったのだ。

「私の、国王としての職務は、お前を冢宰にしたことからはじまっていると思ったんだ。 だから、すべての実りの始まりである稲の花が、浩瀚に似ていると思った。おかしいかな?」

 急に浩瀚は、席を立ち優雅に跪礼の体制をとる。
 深く顔を伏せ、静かに口を開いた。

「主上。……私浩瀚は、あなた様に最後の時までお仕えすることを、 ここに改めてお誓い申し上げます。」

 とても、静かな時が流れた。

 浩瀚は、このとき不覚にも涙を流した。
 この男が、だ。

 たった一滴だったが……。
 そのひとしずくを止めることができなかった。
 周りにいた男たちはみな気づいていたが、当の陽子はまったく気づいていなかった。
 急に面を伏せた自国の怜悧な冢宰を不思議そうに見ていた。



しーんとした場に、妙に居心地悪さを感じた桓たいが、口を開いた。
「それで、主上はいったい何なんですか?」
「え、私も、何かにたとえるの?う〜〜んと、そうだなあ、わたしはたぶん……」

「ご飯を炊いて」
「食べる人でしょ」
いつの間にか祥瓊と鈴が陽子の後ろに控えていた。
 二人の言葉を聴いて、桓たいは思いっきり噴出してしまった。 残る男たちの、笑い声も響く。

「それはちょっと、ひどくない?」
という陽子に、
「あら、ご飯も炊かずに、盛り付けることもせずに、 ただ食べるだけの人って言わないだけずいぶんましでしょ」
と、祥瓊に言われてしまい、陽子はがっくりして、一同はまたも大笑いとなった。



余計なことだが、稲の花にはもちろんめしべもある。
おしべに守られるようにしてエイという殻の奥底にある。
稲は、そのエイがたとえ開かなくても、実るのだ。
自家受粉するのである。
エイに守られてめしべはおしべの花粉を受ける。
たとえ、大風が吹いても大雨が降っても、そこに稲が立っていさえすれば実るのだ。
できた米は多少黒くなったりするようだが。



そう、やがて稲の花は豊かな米の実りとなる。



 赤楽二年八月、慶国は稲の花が満開になった。
 豊作の予感がした。
               おわり