選ばれし灰色の小動物




 赤楽4年の冬のこと。
 陽子は統治に力を注ぎ、側近たちも日々努力をしていた。
 あからさまに、陽子に向かって反対を唱えるものはだいぶ少なくなった。

 時は2月半ば過ぎ。
 慶東国は、戴国からの北風を昨年よりも幾分余計に受けていた。 堯天でも、凌雲山を回り込んで冷たい風が吹き下ろし、やがて雲を呼び込み雪を降らせていたのだ。

 慶国は、それほど雪が降ることはないが、今年の冬は珍しく積雪が多かったのだ。
 もちろん、家が埋まってしまうほど降るわけではない。
 そういうことは、王が玉座に存在しないときには、ままあったようだ。 しかし、今では陽子が景王に収まり、執務を怠るようなことはなかったので、 ひどい天変地異は起こらなくなっていたのだ。
 とはいえ、ひどくはないが、めったに雪の降らない土地で、 多少なりとも降り積もったりすると、大変なことになるのだ。

 その日は、前日の夜から雪が降り始めて朝議のころには積雪量が一歩ほどの深さになったのである。
 外殿の大広間に集まった官吏たちは、その積雪について論議をはじめていた。

「地官長、いかがですか?」

冢宰である浩瀚は、朝議の進行を受け持っている。

「はい。堯天では、荷車を引くことができず、商売が成り立たなくなっていると報告がございました」
「冢宰!」
「夏官長、ご発言を」
「禁軍は、昨日の主上によるご提案で、すでに一旅の部隊を堯天に配備しておりました。 そのものたちが、雪による被害について、当たっている手はずでございます」

集まった官吏たちは、夏官長の発言に肯いていた。

「左様でございますか? いかがですか、地官長殿」

浩瀚が穏やかに問いかける。

「それは重畳。とりあえずは安心ですな」

地官長は、ほっとしたようだった。

「春官長、何かご意見でしょうか?」
「はい。冢宰、私はこの降雪がいつまで続くか、予測されているかどうかをおたずねしたいのですが」
「それでは、冬官長に伺ってみましょう」

浩瀚は春官長の質問を受け、冬官長に視線を送り発言を促す。

「はい、冢宰。お答えいたします。冬官府では、慶国の主立った地域から天候の様子など、 情報を受け取っておりますが、それらの資料をわが府吏で検討いたしましたところ、 2〜3日は雪が降ったりやんだりの天気であろうかと結論いたしました」

冬官長は、浮かない顔をしていた。それを聞いた春官長も、冢宰である浩瀚も、その表情を曇らせたのだ。
そんな様子を玉座で見ていた陽子にも、その暗くなった表情はよくわかった。

「みんな、いったいどうしたんだ? 何か、問題があるんだな。私にも理解できるように説明してもらえないか」

陽子は、みなの顔を見渡すと、久しぶりにその椅子から立ち上がり、臣下の座っているところまで降りてきた。

「主上!」

多少諌めようという響きを持った声が陽子にかかる。 しかし、ふっと漏らしたため息と共に、彼、景麒も陽子に伴って降りてくる。

 雲海は雪雲に覆われて暗く、外の光はあまり明るくは無かった。
 今日の朝議は臣下の顔が見えづらい。
 そんな中、慶国主従の二人が並ぶと、まるで太陽のように明るい雰囲気を醸し出す。 金色の鬣と、真っ赤な髪。あたりが暗いのでいつもより深い色の紫にみえる麒麟の瞳と、 燃え上がる緑の瞳。
 この美しい二人が、新しい慶国の象徴になっていることは、臣下一同よくわかっていた。 だが、また、こうして改めて間近に見ることが適うと、大雪の予感に暗くなっていた朝議が、 穏やかな光に包まれていくようであった。

 冢宰が改めて拱手すると、

「それでは、私から簡単ではございますがご説明いたしましょう」

そう言った。

 浩瀚は、こうして主上が降りていらっしゃったのは何ヶ月ぶりだろうかと思い返して微笑む。 初勅のすぐあとは、何度も降りてこられたが、今では落ち着いたものだ。 すっかり女王の風格を身に付けられたと思っていたが、やはりこの方は慶の民を一番に思っていらっしゃる。
 そんな風に思いながら、語りだした。

 慶国は、本当はあまり雪が降らないのだ。 降ってもすぐに、やんでしまい、広途の轍のあたりから、すぐに融けていく。 日陰や道の脇などは残っていることもあるのだが、それも晴れて太陽が顔を出せば、消えてしまう。
 だから、大雪に対して、民人は備えなどしていないのが現状だ。 むしろ、いつ起こるかわからない蝕に備えて、備蓄などしているものの方が多いくらいだ。
 雪は一晩越すかどうかが大きな問題になる。 降ったまま寒い夜を迎えると、積雪もさることながら、凍り付いてしまいなかなか融けなくなるのだ。
 そうすると、まず人が通る道がひどく通りづらいものになる。 滑って怪我をするものも出てくる。立て付けの悪い民家などは、 屋根に積もった雪の重さで家屋そのものがつぶれることもある。 もともと、雪が降ることを想定して屋根を作っていないからだ。 大きな荷車や、馬車も、雪に対して何の供えも無いので、通れなくなる。 無理に通れば事故につながる。 流通も何も、止まってしまい、炭が無くなったといって買いに行くこともできなくなるのだ。 普通に暮らしている民でさえそうなのだから、 まだたくさん国内に住んでいる、荒民上がりの民人たち、 巧国や戴国から移り住んでいる正真正銘の荒民たちなどの苦渋は計り知れないものがある。 慶国では、普通の家にはそりなど置いていない。いや、金持ちでも使わないだろう。 堯天はこれでも慶国では大きな都市なのだ。 自分ではまったく田畑を耕さなくても他の仕事を持って生活している人々がたくさんいる。 それらの人々は、毎日の糧を流通で入手しているのだ。買い物ができなければ、飢えてしまう。

「なるほど、わかった。雪が降り続いて、堯天(まち)の機能が停止してしまうと、 ひどく困ったことになるというわけだな?」

陽子は、浩瀚に確認を求めた。

「その通りでございます、主上」
「そうか。では、早めに禁軍を配備しておいてよかった。ほかに何か、私たちにできることはあるだろうか?」

浩瀚は、あくまでも堯天にすむ民人を心配する陽子に、熱いものを感じながら、朝議を続けた。

「皆様。主上もあのようにおっしゃっておられますので、何かご提案のある方は遠慮なくご発言下さい」
「それでは、冢宰」
「秋官長殿、どうぞ」
「ほかに議案がなければ、一度朝議を解散して、各府吏に戻り、 それぞれの専門の官達に至急検討させてはいかがでしょう?  ここにいるものは権限を持ってはおりますが、 具体的に民人がどう困っているかはわかりかねるのではありますまいか?  そのなかで、上がってきた懸案を、またわれらが集まり検討してはいかがでしょう」
「いかがでございますか、ご一同?」
「賛成」
「賛成でござる」

口々に参加している官吏の口から同意の言葉がもれてきた。

「冢宰!」

まだ、段の下に降りたままの陽子が、浩瀚に声をかけた。

「はい、主上。いかがいたしましたか?」
「うん、今回挙がってくる案件は、冢宰の権限で裁可して実行することを許可する。 一刻も早く体勢をとろう。雪は待ってくれないからな」

陽子はそういってにっこり笑った。

「御意」

浩瀚は短く答え、このあとすぐに、朝議はお開きになった。 午後から、それぞれの府吏で至急懸案をつくり、冢宰府で検討、実行することが決まっていた。
 早めの昼餉となった陽子は、仁重殿にもどろうとする景麒を捕まえた。

「景麒、お願いがあるんだが……」
「主上、どういたしました?」
「視察に出たいのだが、どうだろう?」
「本日でございますか?」
「うん。だめか?」

景麒は黙って難しい顔をした。
 寒いからおよしなさい、とも、危ないからおよしなさい、とも、 兵たちの仕事にかえってじゃまになるから、とも言えなかった。
 寒さはともかく、もっと危ない事を彼女はすでにたくさん経験してしまった。 兵たちの仕事にはじゃまになるどころか、率先して手伝い、むしろ大きな力になるだろう。 まして、主上は遊びに行かれるわけではない。 このように、真剣なお顔で私にわざわざ相談してくださる。 景麒は、そこまで思い至ると、表情がほどけ、 自分がこのような景王に使えることができる喜びで、胸がいっぱいになった。

「いえ、行っていらっしゃいませ。それでは……」
「うん、わかっているよ。使令を貸してほしい。いつものように冗祐と、あとは誰にしようかな……」
「班渠がよろしいでしょう。あれは、寒さに一番強いはずですから」
「そうか? では、班渠をお願いする」
「班渠」

景麒の呼びかけに答えて、

「是」

という低い声が聞こえた。王宮の中なので、班渠は姿を現すことを遠慮した。

「ああ、いつもありがとう。今日もよろしく頼む。どこから出て行こうかな?」

陽子が思案していると、むこうから左将軍が近寄ってきた。桓たいは高貴な二人に拱手する。

「お、桓たい! おまえいいところに来たぞ。 これから、視察に雲海の下へ降りるんだ。とめても無駄だからな。 今日はきちんと景麒には認めてもらったし……」
「……という言い回しをされたということは、 やたらに下へ降りてはいけないということをよくご理解いただいているということですね。 大変ご立派だと……」
「嫌味はいいからさ、桓たい。今なら、どこから降りればいいかな?  桓たいの考えを聞かせてほしい」
「はは、これは失礼いたしました。そうですね、禁門からの方が出やすいんですが、 今日は雪雲が立ち込めていますからね。堯天(まち)の様子をご覧になりたいんでしょ?」
「うん」
「それなら、皋門から広途へ出られた方がわかりやすいのではないですか?」
「やっぱりそう思う? 私もそんな気がしていたんだ」
「では、それがよろしいでしょう。主上、台輔」
「あ、何か仕事があるんだね。もう、いいよ。行ってその仕事を終わらせてくれ」
「では、これにて失礼いたします」

桓たいは、先を歩いていった。おそらく、浩瀚と何か打ち合わせがあるのだろう。陽子は景麒に向き直った。

「景麒、おまえの使令は、班渠と冗祐と重朔と驃騎、の4人だよね?」

 (人?)使令をヒト扱いする陽子に、景麒は思わず顔をほころばすが、

「いいえ」

と、答えていた。

「え? まだいるの?? 私は知らないぞ」
「はい。ほんの小物ですので、主上のお役に立つことは無いかと、今まで呼び出しませんでした」
「そうなの? でも、会いたいな。どんな、使令なの?」
「そうですか? では……ジャッコ、主上のお召しだ。 特別に王宮で姿を現すことを許可する。出てきなさい」

そう言った景麒に、陽子はびっくりした。則やしきたりにうるさい景麒が自らそれを破るとは……。

「おまえ、変わったな」
「そうですか?」

景麒は笑っている。陽子は辺りを見回すが、使令らしき姿は無かった。

「景麒、姿を見せろ、といったのは何かの冗談か? ……あっ! もしかして、透明な種族だとか!?」
「そこに居りますが」

景麒はそういって手のひらを下に向かってかざしていた。 陽子は、その手先にそって視線を下に降ろしていった。 すると、猫ほどの濃い灰色をした獣が丸くなっている。

「景麒、もしかして……これ?」
「はい。」
「私に向かって伏礼しているのか?」
「おそらくは、そのつもりかと」

陽子は、破顔して自分も膝を折った。

「ジャッコ、というのか?」

ちい、という小さい声が聞こえる? 陽子は首をかしげて、景麒を見た。

「ああ、このものは人語を発することはまれです。 こちらの言うことも、あまり細かい話しになりますと、おそらくわからないかと」
「そうなのか。使令にも色々いるんだね。 みんな、言葉を話しているから、使令は話せるものだとばかり思っていたよ」
「雀瑚、と書きます」
「へえ、いい名前だなあ」

しみじみと話す陽子を、思わず雀瑚は見上げてしまった。 その優しそうな瞳、真っ赤な髪。大変美しい、いや、かわいらしい主上だと、そう思った。 雀瑚は、自分が勝手に顔を上げてしまったことに気づかず、陽子を見つめていると、

「ああ、やっと顔を見せてくれたね。なんてかわいい眼をしているんだ。景麒、抱いてもいいのか?」
「どうぞ」
「ほんとうか! では、雀瑚。ここにおいで! 私の言っていることがわかるか?」
「ちい?」

首をかしげると、その使令は小さな声をあげて、差し出された優しげな、 それでも剣だこの目立つ二つの手のひらに向かって飛びついた。 陽子は、かわいくてたまらないというように雀瑚を抱き上げて立ち上がる。その顔を寄せると、

「雀瑚、っていうんだね、よろしく」

と声をかけた。

「じゃっこ」

その使令が小さな声で囁くように伝えた言葉は、自分の名前であった。

「景麒、この子しゃべったよ! ジャッコって聞こえた!!」
「はい、その程度は話せたかと記憶しております」
「ふうん、かわいいね。それに、暖かい。 そうだ、この子も連れて行ってはだめかな?風邪を引いてしまうかしら」
「いいえ、そんなことはないと思いますが、お役には立てないかと思います」
「温石の代わりにするんだ。ふふ、暖かくて気持ちいい。猫みたいだ」
「猫と言うよりは、鼠の方が近いかと思います」
「そうなのか?」
「はい、飛鼠という種類の妖魔です」
「ふうん、わかった。今日は皋門から出て、 遠くに行ったりしないから、初めてでも大丈夫だろ? だめかな」
「いえ、主上がそうおっしゃるならどうぞお連れ下さい。これも喜ぶでしょう」
 その昔、泰台輔がまだ幼かったころ、折伏するところをお見せするために使令にした小物だ。 王宮の庭に放すしかないと思っていたが、主上がことのほかお気に入りでよかった。 お疲れになった主上のお心が、雀瑚によって癒されるようであれば、よき使令となるのであろう。
 景麒は、満足だった。



 陽子は、自室へ戻り着替えをする。暖かな冬用の戦袍を身につけ、防寒用の上着を羽織る。

「雀瑚、おまえ懐に入るかな??」

どうやら上着の中には入れそうだった。薄く綿を入れた目の詰まった手袋もはめ、 足にはふっくらとした藁沓をつけ、滑らないよう特別に竹で編んだ大きなわらじのような履物をつけた。

「こんな、いでたちになるのか」

思わず口を開くと、着付けを手伝っていた鈴と祥瓊が、含み笑いをする。

「ええ、そうみたいよ。昨日桓たいにも手伝ってあげたんだけど」
「そうね、祥瓊。私も、桂桂やら遠甫やら、虎嘯の雪支度も手伝ったから、知ってるわ」
「ああ、そうか。祥瓊は芳国の出身だから、こういう服装には詳しいんだね」
「ちょっとね」

胸をそらした祥瓊に、少女二人、おかしそうに笑う。

「あら、やだ。祥瓊ったら、自慢している〜」
「そんなんじゃないわ、鈴ったらもう」

額に縦にしわを寄せ、口を尖らせた祥瓊を見て、また笑う。楽しいひとときだった。


「じゃあ、行ってくるよ。雀瑚、おいで!」

ぴょんぴょんと跳ねて、陽子の腕にすがったかと思うと、 すっと上着の袷から陽子の服と上着の間に入り込み、上着の帯との間にすがった。

「班渠、頼む」

 王宮内では、使令が闊歩することは禁じられている。 しかし、穴場というものはあるもので、班渠はどこを通ればあまり人に見咎められず、 皋門までいけるかよく知っていた。
 皋門に近づくにつれ、寒さがひどくなってくる。 雪の香りがする外気に触れ、陽子は背中がぞくぞくするように感じた。 彼女の上着の中では、雀瑚が身じろぐ。それは、 陽子には暖かな感触となって彼女の体全体に伝わっていったのだ。
 皋門まであと少しというところで、班渠は遁行する。 陽子は、大きな雪の花が空から次々に落ちてきているのを確認して、広途に出た。



 ここは冢宰府の奥、浩瀚の仮眠室に当たるところであった。 冢宰である浩瀚は、このとき人払いをして、桓たいを招いていた。

「やはり、主上は堯天へ降りられたか」
「浩瀚様の読みが当たりましたね」
「ああ、主上は民人の暮らしに大変関心をお持ちだ。 特にこのような大雪だといったような民人が困ったことになるときは、 必ずといっていいほど視察をなさるからな」
「浩瀚様がおっしゃられたように、今日も一卒の兵を動かしています」
「ああ、いつもすまないな」
「いいえ、兵達は喜んでおりますよ」
「そうだろうな。」
「浩瀚様も行きたいでしょ?」
「ん? なんだと!」
「いいえ、何にも」
「ふん、主上が何をなさっておいでかわかるようにしておけよ。」
「了解いたしました。」
そうなのだ。陽子が堯天に降りるときはいつも、 陽子には知られないように、禁軍の兵が付いていった。 付かず離れず、決して悟られないようにと言明されて。



 さて、堯天の広途から少し入ったところに、荒民が多く暮らしているところがあったのだ。
 陽子は、そのあたりを歩いていた。雪は静かに降っている。 どうやら、風は収まったらしい。狭い道だった。 雪の吹き溜まりがところどころにできている。 いつもならごった返している人々は、ほとんど姿が見えなかった。 どこにいるのだろう。陽子は不思議に思うと同時に、 この寒さに凍えているのではないかと心配していた。
 突然、バリバリバリ……という音が聞こえてきた。音のするほうへ急いだが、 雪に足をとられ、あまり早くは進めなかった。やっとの思いでたどり着いてみれば、 そこは壊れかけた家屋に張り付くように、板や破れた天幕などが集まっているところであった。
 その、古びた家屋の屋根が、雪の重さに耐えられず、半壊してしまったのだ。

 陽子はあせった。中には驚くほどたくさんの人々が寄り集まって暖を取っていた。 貧しい者は、小さな囲炉裏にその火を絶やさず、多くの人が集まって肩を寄せ合うことで、 凍えるのを防いでいたようだった。その、守りの古屋が壊れてしまった。 途方にくれる人々の顔があった。寒さは、半端ではないのだ。 泣き叫ぶことすらできないようであった。

 これでは、皆寒さで凍え死んでしまう。 しかし、陽子一人では、何もできない。早く人を呼びに行かなくては、そう思った。

「班渠!」
「ここにおります」
「うん、遁行したままでよい。すまないが、 急ぎ王宮に戻り景麒にこのことを伝えてくれないか。 何人か州師か、禁軍の兵士を貸してほしいと」
「是」

と、答えたものの、班渠は陽子がこうしてお忍びで視察に出るときは、 必ず禁軍が周りを固めているのを知っていた。王宮に戻るよりは、 そのものたちを呼べば、ずっと早いと言うこともわかっていた。 たぶん、この騒ぎも知っているのだろうが、陽子に気づかれないようにと厳命されているのか、 飛び出しては来ない。ヒトというのは不便なものだと班渠は思いつつ、 自分も陽子に下命されているので、王宮へ向かわないわけにはいかないと思っていた。

 そのときだ。

「ちい!」

と鳴いて、雀瑚が陽子の懐から飛び出した。

「あ、まって! どこへ行くんだ。迷子になるよ!」

陽子はあわてて追いかけようとして、雪に足を取られてしまった。

 ずぼっという音がしたと思うと、大きなわらじのような履物は、藁靴から外れてしまい、 ふきだまりになった雪に、陽子は膝のあたりまではまってしまった。

「ぎぃぃぃーーーー!」

雀瑚は、ひときわ大きな声で鳴くと、あわてたかのように小走りで、 陽子の元へ戻ってきて、小さな前足で、雪を一生懸命かきだしたのだ。

「助けてくれるのか……」

特に命じたわけではない。しかし、小物故に使令となった飛鼠は、 本能的に国王の身を守ろうとするのだろうか。陽子にはそんな風に思えて、目頭が熱くなった。

 班渠はその様子を見て、心を決め、陽子の一番近くにいた禁軍兵士の後ろに遁行したまま寄ると、

「主上がお怪我をなさった。すぐに救出されたし!」

そういった。


 さて、陽子付きの禁軍兵士達は、もちろんこの様子を見ていた。 荒民が多く集まっていた古屋が、雪のために壊れたようだというのは気が付いていたが、 しんしんと降り続く雪の帳に隠されて、陽子がすべって転んだことには気づいていなかった。

「ほんとうか! それは大変だ」

班渠の言葉は、別の場所を担当していた同じ兵の言葉だと思った兵士は、 急いで同じ伍の仲間を集め、陽子のいるところを探し当てた。

「主上!」

伍長が叫ぶ。

「ああ、おまえ達。禁軍か?」
「左様でございます」

あわてて5人の兵士は跪礼する。いかつい男たちがやってきたのを見ると、 雀瑚はそれまで小さな手で雪をしゃこしゃこ掘っていた陽子の足元から、 ぴょんととんで、陽子の懐へ隠れて、

「ちいちい」

と鳴いた。

「ああ、びっくりさせてしまったか。大丈夫だよ、雀瑚。彼らは禁軍の兵士だ。優秀なんだぞ!」

そう言って、上着の上から、雀瑚の背中をぽんぽんとたたいてやった。

「優秀」と聞いて、5人の兵士は胸を張る。仮にも景王から直接優秀といわれたのだ。うれしくないはずがない。

「あ、みんな・・申し訳ないが助けてくれ。雪に足を取られた。それから、このあたりにはおまえたち5人だけか?」

思わず、顔を見合す兵達。主上には決して見つからないようにという厳命を、たった今思い出したのだ。

「緊急事態だ。人がたくさん集まっていた古屋が、どうやら倒壊したらしいんだ。 この寒さと雪では、どうすることもできないだろう。一時王宮内に避難させよう。 それから、被害状況を調べて、夏官府に報告してほしい。できないか?」
「いえ、喜んでやらせていただきます」

そういって、伍長は伝令を飛ばす。ひとりを陽子のそばに控えさせ、 ひとりを他の兵士に連絡させ、自らは残りの2名と共に、荒民の救助に向かった。

「よくできた兵たちだ。桓たいの指導は半端じゃないな」

陽子は、通りすがりの禁軍兵士だと思っていたのだ。 昨日堯天に、今日雪が降ることを想定して、陽子自身が、 禁軍を堯天(まち)に配備せよ、と命じたのだから。 しかし、このとき駆けつけたのは、もちろん禁軍の中でも特に選りすぐった、 陽子の視察時における警備の兵達であったから、 普通以上に陽子のために働くのは、当然といえば当然であった。 そうこうしているうちに、一卒ほどの兵達が集まり、 家屋の中から人々を助け出していた。老若男女が総勢30名ほど、 皋門のすぐそばにある禁軍の詰め所に仮避難することになった。



 王宮に戻った陽子は、景麒を呼んで使令をかえし、ほっと一息を付いた。

「早いお戻りで何よりです」
「うん、やはり雪が降ると寒いね。雀瑚は暖かかったぞ」
「左様でございますか?」
「それに、私を一生懸命助けようとしてくれたんだ。景麒の使令はみな優しいね」
「ありがとうございます。雀瑚も喜びましょう」
「そう? かわいかったなあ……」
「お気に召されたのであれば、いつでもお貸しいたします」
「ありがとう。でも、あまり王宮の中で使令を使ってはいけないんだろ?」
「はい、本来は。しかし、雀瑚は小さい種類でございますので、さほど影響は無いかと思います」
「あはは……、確かに班渠が園林を歩いていたら、知らない者はびっくりするよね。 でも、雀瑚なら、大きなねずみかちいさいうさぎぐらいにしか思わないかも。 じゃあ、また貸してもらうよ」
「それがよろしいでしょう」

 このあと、冢宰府ではいくつかの案件が裁可され、大雪の対策がなされたという。
 半壊してしまった古屋に住んでいた荒民たちは、雪がやむまでの間、 王宮で手当てされ、その後は、地官府の役人が世話したもう少しましな古屋に移っていったそうだ。



「と、いうわけで、たいした被害が出なくて何よりでした」

冢宰府の奥で、酒を飲みながら、桓たいは浩瀚に向かって話をしていた。

「そうだな。暖かくなればすぐにまた稲の作付けを心配しなくてはならない。 そのためにも大きな川の堤防をもう少し整備せねばならんだろうな」
「そうですね。しかし、主上はまめなお方だ」
「ああ。そのような主上をいただくことができて、我々は幸せだ」
「禁軍も優秀だとほめられたそうです」
「それは、兵達が喜んだろう?」
「はい、それはもう。ところで、主上は何か動物を飼っていらっしゃるんですか?」
「いや、そんな話は伺っていないが」
「主上は雪のまちを視察されたとき、 その懐に何かかわいい動物を入れていらっしゃったそうですよ」
「ほう、それは興味深い。」
「野生の動物は簡単にはなつきませんし、 主上が王宮で何か飼っているというお話も聞いていない……とすると?」
「台輔の使令ということも考えられるな」
「そうなんですか?」
「妖魔には色々な種類がいるようだ。大きいものから小さいもの。 ひどく害毒のあるものから、さしてその辺りにいる動物と変わりないもの。 そのような物の一匹かも知れぬ」
「ふうん、そんなもんですかね」
「もしそうであれば……」

そう言って、浩瀚は器に残った酒精の強い液体を一気に飲み干した。

「一度、妖魔にもなって見たいものだな」
「何をおっしゃいますか、浩瀚様!」
「いや、何も」
「ごまかさないで下さいよ。妖魔になんかならなくたって、 主上にはっきり言えばいいじゃないですか!」
「ばか。できればとうにそうしている……」

桓たいは、ふっと笑って、空になってさしだされている浩瀚の器に酒を注いだ。

        終わり